2020年11月号
特集
根を養う
対談
  • (左)早稲田大学名誉教授池田雅之
  • (右)千葉大学名誉教授三浦佑之

日本人の精神の源流を辿る

日本神話に学ぶ日本人の生き方

いまから1300年以上前に成立したとされる日本最古の歴史書『古事記』には、「稲羽のシロウサギ」「オホクニヌシの国譲り」など日本人に親しまれてきた神話、物語が数多く収められている。しかしそれらに込められた寓意や成立事情には不明な点も多く、その実像はいまだ定まっていない。日本神話の研究一筋に歩んできた千葉大学名誉教授の三浦佑之氏と、小泉八雲研究を通して日本人の生き方を見つめてきた早稲田大学名誉教授の池田雅之氏のお二人に、『古事記』の真実、そこから見えてくる豊かな世界を縦横に語っていただいた。

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日本神話に魅せられて

池田 きょうは、『古事記こじき』や『日本書紀』に造詣ぞうけいの深い三浦先生とご対談できるということで、とても楽しみにしてまいりました。
私はもともとT・S・エリオットやロマン派の詩人など英文学を中心に勉強していたのですが、文化的背景や宗教的背景の違いもあって、どうもよく分からないと思い続けてきました。しかしそういう中で、1890年に来日し、日本に帰化した文学者・小泉八雲やくも(ラフカディオ・ハーン)の英文著作に出逢いまして、随分とに落ちる、ピタッと来るものがあったんです。
恩師の詩人で英文学者の西脇順三郎にしわきじゅんさぶろう先生にすすめられたことも、大きかったです。八雲については翻訳をしたり、論文を書いたりして40年になります。ですから、私は遅ればせながら八雲経由で日本に回帰し、彼の『日本の面影おもかげ』の翻訳を契機にして、日本神話と向き合うようになったんですね。

三浦 ああ、小泉八雲をお読みになってから日本神話に関心を持たれたのですね。最近は随分と神話について発信されていますね。

池田 日本の神話について研究するようになったのはここ20年ですが、もうそれまでは洋学派、西洋かぶれの人間でした(笑)。

三浦 でも、英語圏の文学をなさっていたから、余計に日本の神話が分かりやすくなるところはありますよね。自分の国のことだけをやっていると、どうしても狭くなってしまうところがあります。

池田 日本と欧米の神話の両者を比較する視点が出てくるところは、実に楽しく、スリリングですね。
三浦先生との出逢いということで一番大きかったのは、やはり先生が2002年にお出しになった『口語訳 古事記』です。それを読んで非常に面白いと思いました。以来、三浦先生の多くのご本から学ばせていただいてきました。
その後、早稲田大学の「エクステンションセンター(一般社会人向けの公開講座)」で何度か三浦先生に日本神話についてお話をしていただきました。直接お会いしたのはその時でしたから、かれこれ10年近くになるでしょうか。

三浦 ええ。ただ、私もそれ以前から、池田先生が翻訳した『日本の面影』を読んでいました。それがとても面白く、特に出雲いずも神話に関わる話を何度も自分の著書に引用させていただいていました。

池田 同年に三重県に生まれたというのも、不思議なご縁を感じます。
それにしても、三浦先生が2019年11月に出された大著『出雲神話論』は素晴らしいご労作ですね。出雲から『古事記』と日本を見直すお仕事は、日本のいまを考え直す上で極めて重要です。

三浦 大学を退官して、もう先もあまり長くないから(笑)、言いたいことを全部言っておきたいなと思っていた時、出版社の方から連載を始めませんかと。それで、2年ほど雑誌に連載したものに加筆・修正を加え、出版したのが『出雲神話論』なんです。
いま読み返すと足りないところがまだまだ出てきて困っているのですが……。後から詳しく触れますけれど、『古事記』には、出雲を舞台にした神話がたくさん描かれていて、しかも、それはヤマト王権側にやぶれていく人たちの内容が多い。それはどうしてなのかずっと興味がありまして、自分なりにきちんと説明をしたいとの思いで『出雲神話論』をまとめました。

池田 私も最近、日本の聖地である熊野くまのから日本神話をとらえ直し、日本とは何かを考える『熊野から読み解く記紀きき神話』を友人たち5人と出しました。出雲神話は、いってみれば、敗者の物語といってよいですね。出雲にせよ、熊野にせよ、特に明治以降、日本が近代化していく中で、この二つの神話の地はどうやら中央から見捨てられ、歴史の裏街道を歩まされてきたように思うんです。古代から中世に至るまで、伊勢や大和や京都が日本の中心であり、表街道を歩いてきた。出雲や熊野は取り残されてきたといいますか……。

三浦 おっしゃる通りですね。確かに『日本書紀』と『古事記』を読むと、出雲と熊野には何らかの関係性、つながりがあったことが分かります。しかしいまでも出雲と熊野を行き来するのは大変ですから、古代の人たちがどうやってお互いに関係していたのか……。
私には二つの地は陸ではなく、‶海〟で繋がっていたとしか考えられないんです。実際、熊野速玉はやたま大社の御船みふね祭など、熊野のお祭りは船に関するものが多い。「海民」のことを考えないと、両者の関係もつかめないなと思いつつ、それ以上は研究が進まない(笑)。

熊野速玉祭の一つ、御船祭の様子。御船島を廻り、神霊の遷された神幸船を先導して9隻の早船競漕が行われる。同じような祭は東南アジアでも広く見られる ©新宮市観光協会

池田 出雲は日本海とアジアに開かれています。熊野は太平洋・黒潮の流れと繋がっています。どちらも海に開けた土地ですから、出雲と熊野との間に何らかの海の交通路があったことは十分考えられますね。実は出雲と熊野がいまなお、日本文化の根底を支え、日本文化の豊かな多様性を生み出している地域なんですね。そこを見ていかないことには、日本人の多様な文化が分からないと思います。

千葉大学名誉教授

三浦佑之

みうら・すけゆき

1946年三重県生まれ。成城大学大学院博士課程単位取得修了。千葉大学文学部教授を経て、立正大学文学部教授。千葉大学名誉教授。専門は古代文学・伝承文学。2003年に『口語訳古事記』(文藝春秋)で第一回角川財団学芸賞受賞。著書に『古事記講義』(文藝春秋)『古事記のひみつ歴史書の成立』(吉川弘文館)『古事記を読みなおす』(ちくま新書)『NHK「100分de名著」ブックス 古事記』(NHK出版)『出雲神話論』(講談社)など著書多数。

恩師・中西進先生に学んだ感性の大切さ

池田 そもそも、三浦先生はどのようなきっかけで『古事記』の研究に入っていかれたのですか。

三浦 私と日本神話、『古事記』との出逢いには、劇的なものは何もありません(笑)。『古事記』と初めて出逢ったのは大学2年生の頃でしたが、私の指導教授は『万葉集』などの研究で知られる国文学者の中西すすむ先生なんです。
まだ先生が40代の若い頃でしたけれど、ある演習で出雲神話のオホクニヌシの妻求めの歌を読みましてね。その歌に触れた時、いまの日本語とは違う魅力がたくさんあって、「『古事記』は面白いな」と。中西先生のご専門は『万葉集』ですが、まぁ『万葉集』はいいやと思って(笑)、そのまま『古事記』を研究するようになったんです。以来、50年、ずっと『古事記』に向き合ってきました。

池田 中西先生が指導教授と伺い、うらやましくも思いました。2020年は小泉八雲生誕170年、来日130年の節目ということもあって、中西先生が館長を務める高志こしの国文学館(富山県)でも7月に「八雲の展覧会をやりましょう」ということでした。結局は、新型コロナウイルスの影響で中止になりましたが、中西先生は小泉八雲にもご関心があるのかと感嘆しました。

三浦 ええ、本当にいろいろな分野に興味関心をお持ちの方で。

池田 中西先生に学ばれたことで、大事にしていることはありますか。

三浦 具体的にこれっていうことよりも、『古事記』の読み方を教えていただいたのでしょう。昔の大学の文学部の一番中心的な講義は、やはり「講読」なんです。一つの作品を何年もかけてずーっと読んでいく。例えば、『万葉集』は20巻ありますが、それを1年で1冊、20年かけて読んでいくという先生が昔はざらにいました。
ですから、中西先生も当時、5年くらいかけて『古事記』を読んでいたのだと思います。その講義は『古事記をよむ』という4冊の本になっていますが、先生の講義を受けていると、自然に『古事記』の読み方、言葉の感じ方を教えられたような気がするんですね。
それはおそらく感性のようなものでしょう。文学に限らず、研究はコツコツ続けることで分かってくることも確かにありますが、もう一つ必要なのは、やはり感性やひらめきといったものではないかと思うんです。研究者としての感性や閃き、中西先生が素晴らしいのはそういうところだと思います。

池田 本当におっしゃる通りで、感性や閃きというのは、どの分野の研究でも非常に大事ですが、文学の場合は特にそう思います。『古事記』や八雲の作品を読み解くには、とりわけそうした感性や直観力が大切かと思いますね。読者にもぜひ感性全開で『古事記』にチャレンジしてほしいですね。

三浦 それと、私が大学2年生の時に、国文学者の西郷信綱のぶつなさんが『古事記の世界』という本を出されましてね。これは、西郷さんがイギリス留学で学んだ文化人類学の視点から『古事記』を読み替えたもので、当時の『古事記』研究の常識をすっかり変えるほどの大きな衝撃を与える本だったんです。私もすごく影響を受けました。
それから、もう一つ影響を受けたのが、次の年に出た思想家・吉本隆明たかあきさんの『共同幻想論』。この本は、国家論といってもよいかもしれません。『古事記』や民俗学者・柳田国男やなぎだくにおの『遠野とおの物語』を取り上げて、国家の起源を明らかにしようとしたものです。これも『古事記』を考える上で、いろんな材料を与えてくれました。

早稲田大学名誉教授

池田雅之

いけだ・まさゆき

1946年三重県生まれ。早稲田大学文学部英文科卒業。明治大学大学院博士課程修了。ロンドン大学大学院客員研究員。専門は比較文学、比較文化論。小泉八雲、T・S・エリオットなど数多くの訳書を手掛ける翻訳家。早稲田大学名誉教授。NPO法人「鎌倉てらこや」理事長を長らく務め、現在は顧問。文部科学大臣奨励賞、正力松太郎賞等を受賞。著書に『NHK「100分de名著」ブックス 小泉八雲 日本の面影』(NHK出版)、編著に『お伊勢参りと熊野詣』『古事記と小泉八雲』(共にかまくら春秋社)『熊野から読み解く記紀神話 』(扶桑社新書)など。