2019年11月号
特集
語らざれば愁なきに似たり
  • 天内みどり

悲しみの底に見えたもの

北朝鮮引き揚げの記録

敗戦後、北朝鮮で難民となり、病身の母と幼い妹と共に幾多の命の危機を乗り越えて、祖国・日本に引き揚げてきた天内みどりさん。極限状態の中で人間を最後に支えるものは何か――壮絶な引き揚げ体験を交えて語っていただいた(写真:洗心美術館〈青森県八戸市〉に所蔵されている彫刻家・関頑亭氏の作品「平和の祈り」の傍で)。

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ソ連の侵攻と難民生活の始まり

昭和16年7月末のある日、我が家はおごそかな緊張感に包まれていました。東京の陸軍獣医学校の教官を務めていた父が動員され、満洲へ発つことになったのです。

そして12月8日、太平洋戦争が開戦。やがて、一緒に暮らしていた父方の祖母は娘夫婦に、私と七歳の妹・かほるは縁故疎開で母方の祖母の元に引き取られ、福井県で暮らすことになりました。

3歳違いの16歳の兄は、昭和20年4月に幼年学校に入学するのですが、その合格通知を手にした途端、母は安堵あんどと疲労から肋膜炎ろくまくえんで倒れてしまいました。しかし当時の日本では、薬を手に入れることはできなくなっていました。

さらに同年3月・5月の東京大空襲です。満洲にいる父は、そんな状況に母を置いておくことはできない。また母にとっても、これ以上、実家の世話にはとてもなれないと思ったのでしょう。親戚中が反対しましたが、母はそれを押し切って、私と妹を連れて満洲へと渡ることを決めたのでした。

母子3人で山口の下関しものせきから船に乗り、やっとの思いで辿たどり着いた満洲・新京。母はそのまま父に連れられ病院に直行しました。新京で楽しかったことは、朝、少年兵さんが馬を連れて父を迎えにきた時、馬に乗せてもらえたこと。もう一つは、家に出入りしていた満人の少女と遊んだことです。日本が統治する満洲は治安もよく、生活はとても恵まれていました。

ただ、そんな日々も長くは続きません。昭和20年8月9日、すさまじい爆音に驚いた私は、外に飛び出し空を見上げました。北のほうに飛んでいく飛行機を見て「アメリカとは違う。ソ連の飛行機かもしれない」と直感しました。

その日の夜遅くに帰ってきた父は、「ソ連が条約を破って参戦した。お母さんとかほるを連れて先に日本に帰ってくれ。明日出発だから支度をするように」と、私を床の間を背に座らせて言いました。

翌日、父は山ほどの薬をたずさえて母を病院から連れて戻ってきました。「みどり、お母さんとかほるを頼んだぞ」と言われ、私はリュックを背負い、両手をぐっと握り締めながら、「大丈夫よ」と返事をしました。この日が父との最後の別れになるかもしれないのです。

新京駅に着き、獣医部の家族たちが集合しているところまで行くと、父から「おまえたちのことはしっかり頼んであるから心配しなくていいぞ」と3人の兵隊さんを紹介され、少し安心しました。

馬の輸送に使われていた列車にぎゅうぎゅう詰めにされ新京駅を出発、8月13日には船に乗って日本に到着する予定でした。ところが、南下する途中のトンネルで列車は急停車し、再び動き出したと思ったら北へ向かって進み、北朝鮮の宣川ソンチョンで下車命令が出されたのです。後に、日本の列車を北朝鮮側に確保したい共産党幹部からの命令だと知らされましたが、ここから私たちの一年にも及ぶ過酷な難民生活が始まるのでした。

天内みどり

あまない・みどり

昭和8年青森県生まれ。20年母と妹と共に、陸軍獣医の父がいる満洲へ渡る。引揚げ後は、1年遅れて福井の上穴馬小学校荷暮分校を卒業。22年秋、穴馬中学校から八戸の三条中学校へ転校。その後、地元の八戸東高等学校、弘前大学文理学部を経て化学教師となる。平成3年退職。著書に『芙蓉の花-北朝鮮引揚げの記録』(近代文芸社)がある。