2025年2月号
特集
2050年の日本を考える
各界の識者に聞く⑤
  • 明治大学文学部教授齋藤 孝

日本語なくして
日本人なし

多様性と逆行する英語の圧力、隣国で繰り広げられる少数民族への言論圧殺、古文・漢文の衰退……。この現状を憂い、「日本語は岐路に立たされている」と警鐘を鳴らす齋藤 孝氏。日本語教育の第一人者である氏に、現在の日本語が置かれた危機的状況と共に、日本語を守り活路を見出す術を伺った。

この記事は約9分でお読みいただけます

日本語は意識的に守らなければ継承できない

日本人として生をけ、日本語と共に生きてきた私は、日本語こそが日本の最大の財産だと思っています。もし日本列島に住む人々が一人も日本語を話さなくなったとしたら、日本人は存在すると言えるのかと問われれば、存在し得ないというのが私の考えです。

なぜなら、日本人は日本語を母語として育つ中で、日本人的な思考や感性を身につけてきたからです。私たちが個人的な考えや感情と勘違いしているものの多くは、脈々と継承されてきた精神に他なりません。つまり、先人の努力によって形を変えながら受け継がれてきた文化が日本語であり、私たちはこれを次世代に伝えていく責務を担っているということです。

その意味で日本語がなくなった場合、従来有してきた日本文化や伝統の維持は困難を極めます。日本人のアイデンティティーが失われていった時には、もはや日本人は存在しないも同然でしょう。

大半の日本人は、日本語は水や空気のように存在し、当たり前に享受できるものだととらえているのではないでしょうか。しかし世界を見ると、少数言語は常に存続の危機に直面しており、消滅してしまった例も少なくありません。そしていま私は、日本語は意識的に守らなければ継承できない、継承の努力をおこたればいつか消滅しかねないと危惧しています。その理由は主に3つ挙げられます。

1つ目は、人口減です。現在日本語を母語とする人の数は約1億2,500万人で、日本の人口とほぼ同数です。2024年度の調査では世界11位の順位ですが、今後日本の人口は急激に減ると予測されているため、その分日本語を話す人の総数は減少の一途を辿たどります。これは由々しき事態です。

2つ目は、日本が置かれている国際的な地位及び国力です。経済力や軍事力を含めた国の総合的な力が縮小傾向にあると、言語の立場も比例して弱まってしまいます。

現在の世界ではグローバリゼーションの潮流に乗じて、英語を国際的な共通語にしようとする圧力が大きくなりつつあります。日本も例に漏れず、英語を社内公用語とする企業は少なくありません。これらの企業では、英語を話せるか否かが昇進を大きく左右します。逆に言えば、英語力さえ秀でていれば、他の能力が欠けていても評価されるということです。

そうすると、母語を英語に切り替えたほうが恩恵を受けられると考える人が増えていきます。実際、日本のエリート夫婦が我が子を英語しか話さない学校に入学させる話をよく耳にします。入学に際して、学校の先生が「この学校に入ると、日本人には育ちませんがいいですか」と確認すると、構わないと答える人もいるそうです。

確かに英語力を身につければ、様々な国の人と交流ができます。しかし、英語を優先する傾向が強まるほど、日本人が日本語しか扱えないことにコンプレックスを持って生きなければならなくなる。日本語は英語より下の言語だという誤解が子供たちに刷り込まれてしまうということです。日本語を軽視する風潮がやがて広まる、否、既に広まり始めていることは何より恐ろしいと思うのです。

そして3つ目が、突如として言語が奪われる危険性です。人類の歴史を振り返ると、小国が大国にみ込まれたり、言語が置き換えられたりした例は枚挙にいとまがありません。さらに民族の言語を暴力的に奪い取ろうとする動きは、現在も着々と進められています。

例えば、中国のしんきょうウイグル自治区では、ウイグル人に対して学校や職場で中国語を強要する言論圧殺が行われています。既に学校で中国語を強制的に身につけさせられた子供たちは、教育という名の下に人間性までじ曲げられ、中国語を話せない両親や自民族を馬鹿にしたり敵視したりするようになっているといいます。

ある言語が他の言語に置き換えられ、元の言語を話す人が減っていけば、それを復活することは容易ではありません。ゆえに民族の魂を奪うには、文化の象徴である言語を奪うことが一番強烈かつ悪質なやり方ということです。

こういった問題は、日本にとっても対岸の火事ではありません。現在の日本は深刻な人手不足から外国人の流入がどんどん増加しています。そこで彼ら独自の社会、日本語を公用語としない街が増えていくことになれば、日本人のこれまでの社会のあり方が変わっていく。これは日本語の継承にとって憂慮すべき事態だといえます。

言語は民族にとって最重要のものであり、いわば生命線です。母語を大切にすることは基本的人権のはんちゅうに含まれるはずです。そして多様性がうたわれる現代の思想に照らし合わせると、言語の多様さこそが思考や感情、文化の多様性を保証することにつながるのです。

明治大学文学部教授

齋藤 孝

さいとう・たかし

昭和35年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程を経て、現在明治大学文学部教授。著書に『国語の力がグングン伸びる1分間速音読ドリル』『齋藤孝の小学国語教科書全学年・決定版』『齋藤孝のこくご教科書小学1年生』(いずれも致知出版社)など多数。