2023年1月号
特集
げずばやまじ
対談
  • 東京2020オリンピック柔道女子52㎏級金メダリスト阿部 詩
  • 日本体育大学柔道部女子監督小嶋新太

人生死ぬまで通過点

史上初兄妹同日金メダル獲得──それが昨夏の東京2020オリンピックでひと際脚光を浴びたことは記憶に新しい。柔道女子52㎏級で五輪の頂点に立った阿部詩選手は、両肩の怪我、その手術とリハビリを乗り越え、去る10月の世界選手権でも自身3度目の優勝を飾ったのである。弱冠22歳の金メダリストはいかにして心身を鍛え抜き、快挙を成し遂げたのか。常日頃、日本体育大学柔道部で指導に当たる小嶋新太監督と共に、これまでの努力と苦難の道のりを辿りながら、勝負に挑む極意や大切にしている人生信条に迫った。

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常に日本代表のトップに立ち続けたい

本誌 今年(2022年)10月の世界選手権で自身3度目の優勝を飾り、昨年の東京五輪に続いて再び兄妹同日金メダルを獲得されました。おめでとうございます。

阿部 ありがとうございます。自分の柔道人生にとって価値のあるメダルですし、両親も応援に来てくれていたので、二人で優勝した姿を見せられてよかったです。

本誌 東京五輪後に両肩の手術をされたと伺いました。手術とリハビリを経て迎えた今大会はどういう意気込みで臨まれましたか?

阿部 高校3年生の冬に負傷して以来、ずっと痛みや違和感を抱えていたのですが、昨年9月に左肩の関節しん、10月に右肩の関節唇を修復する手術を行いました。
そのおかげで肩の不安はなくなり、組手や足技、寝技など細かい部分を一つひとつ確認し、自分のやるべきことを考えながら準備できたので、非常に落ち着いて試合に挑むことができました。
7月の国際大会(グランプリ・ザグレブ)でも優勝しましたが、世界選手権で優勝して初めて私の本当の復帰だと思っていました。ですから、過去の世界選手権とはまた違った心境でしたね。

本誌 小嶋監督はどのように見守っておられましたか?

小嶋 世界選手権の前は、オリンピックの時ほどの本調子ではないにせよ、かなり仕上がっていて、練習を見ていても、相手を投げるっていう強い気持ちが前面に出ていたので、優勝は間違いないだろうと感じていました。

阿部 手術をすることに対しての不安もありましたが、監督をはじめ周りのサポートに頼りながらやってきて、いまこうして自分の柔道がやっと戻ってきたので、手術をしてよかったと思っています。また、約半年間リハビリで柔道から離れたことで、自分の人生において柔道は欠かせないものであり、充実感をもたらしてくれるものだと気づくことができました。

本誌 2年後のパリ五輪を見据えた時に、手術後間もない今大会は見送り、来年の大会から復帰する選択肢もあったわけですが、えて出場されたのはなぜですか?

阿部 確かに無理をして出場する必要はなかったかもしれません。ただ、私自身、常に日本代表のトップに立ち続けたいという思いがあるんです。この大会は出なくてもパリ五輪には出場できるだろうっていう打算とか、ちょっとした気持ちの緩み、ごうまんさが原因で、一気に崩れ落ちてしまうかもしれない。だから、常に気を緩めず、挑戦しようと。
ただ、10月の世界選手権に出場するためには、4月の全日本選抜体重別選手権に出場しなければいけませんでした。リハビリを終えてらんり(互いに技を掛け合う自由練習)を再開したのが3月半ば。試合まで2週間くらいしか練習できなかったんですけど、世界選手権の切符を手に入れるために無理を押して出場を決めました。52キロ級は自分の階級だぞというプライドもありましたね。

小嶋 うたはいつも万全を期して試合に出る選手です。ただ、あの時は全然練習できていなかったので、逆に私が不安を抱いて、「ちょっと今回はやめておいたほうがいいんじゃないか」って言ったんです。
でも、本人は「出ます」と。
詩の息が上がる試合を見たことがなかったので、終始ハラハラしていたものの、最終的にはゴールデンスコア(延長戦)で初戦を突破しました。これ以上は危険だと判断し途中棄権したわけですが、あの状態で出場したこと自体が驚きですし、彼女の意志の強さに改めて感心しました。

東京2020オリンピック柔道女子52㎏級金メダリスト

阿部 詩

あべ・うた

平成12年兵庫県生まれ。兄・一二三の影響で5歳の時から柔道を始める。夙川学院中学・高校を卒業後、31年日本体育大学入学。現在、4年生。階級は52㎏級、段位は5段。27年グランプリ・デュッセルドルフを制し、史上最年少の16歳225日でIJFワールド柔道ツアー優勝を果たす。30年、令和元年に世界選手権2連覇。3年東京2020オリンピックで史上初の兄妹同日金メダルを獲得。パリオリンピックでの2連覇を目指している。

柔道の名門私塾講道学舎での学び

本誌 お二人がそれぞれ柔道を始められた経緯を教えてください。

小嶋 私の場合は父親の影響で、日体大に進学したのも、いずれは指導者になりたいと思ったのも、父親の姿にあこがれたからです。父親も柔道をやっていて、日体大を卒業した後、赴任先の高校で柔道部の顧問をしていました。
私が柔道を始めたのは遅くて、小学校4年生か5年生くらいです。最初は嫌でしたね(笑)。柔道をしながらサッカーやソフトボールもやっていて、そっちのほうが楽しかったんです。ところが、何気なく参加した小学生の柔道大会でたまたま優勝してしまって、「柔道っていいな」と(笑)。それで父親に勧められたのが、こうどうがくしゃという柔道の私塾でした。
そこでは塾生全員がつるまき中学・世田谷学園高校に通学しながら、寮生活を通して柔道を学んでいきます。古賀としひこさんや吉田秀彦さんなど、金メダリストが何人も誕生し、五輪2連覇中の大野将平君も講道学舎の出身です。

本誌 講道学舎は数多くの強豪を輩出してきた名門ですね。

小嶋 試験に合格し、入塾後は柔道に本気で打ち込まざるを得なくなり、みっちり鍛えていただきました。最初は投げられてばかりで、学年でも下から数えたほうが早かったのですが、とにかく選手としてたたみの上に立ちたい一心で、そのために自分は何をすればいいのか常に考えながら、人よりも多く、けいが終わってからも陰で黙々と技の練習に取り組んでいました。
その結果、中学3年から団体戦のメンバーに選ばれ、高校2年の時には全国高校選手権、きんしゅう、インターハイの団体3冠を達成しました。その後も、大学時代に全日本学生選手権や正力杯国際大会で優勝し、社会人では全日本実業個人選手権で優勝するなど、ある程度の成績を残すことができたのは、基礎を叩き込んでくれた講道学舎での日々と人並み以上に努力を重ねたことにあると思います。

阿部 よい環境に恵まれ、人知れず鍛錬を積まれたことが監督の原点なんですね。

小嶋 あと、見本となる先輩がたくさんいたことも非常に勉強になりました。例えば一つ上の先輩に、後にシドニー五輪で金メダルを獲得された瀧本誠さんがいて、当時から「俺はオリンピックで優勝する」と公言し、中学・高校・大学の全国大会で優勝を手にしていた姿を通して、常に目標を口にすることの大事さを学びましたね。
講道学舎の創立者であるよこはる先生からは、勝負に対しての厳しさを教えられました。褒められたことはほとんどなくて、試合の前にはいつも「決心して臨め」と言われていたんです。指導者となったいまも大切にし、選手たちによく伝えています。

日本体育大学柔道部女子監督

小嶋新太

こじま・あらた

昭和50年神奈川県生まれ。父親の影響で小学校高学年から柔道を始める。柔道の私塾・講道学舎に入門し、弦巻中学・世田谷学園高校を経て、日本体育大学へ進学。卒業後、平成10年綜合警備保障に入社。11年全日本実業柔道個人選手権大会で優勝。12年日本体育大学大学院体育科学研究科体育科学専攻修了(医学博士)。現役引退後は全日本男子ジュニアコーチなどを歴任し、28年より日本体育大学柔道部女子監督を務める。