2018年4月号
特集
本気 本腰 本物
対談
  • バレーボール全日本女子監中田久美
  • サッカー日本女子代表監督高倉麻子

世界一を目指す

本気度こそ勝敗を分ける

去る2016年、バレーボール全日本女子、サッカー日本女子代表に、揃って女性の監督が就任した。片やオリンピックでの金メダル獲得が至上命令だった全日本で鎬を削ってきた中田久美さんと、日本代表の創設期から女子サッカーの発展に力を尽くしてきた高倉麻子さんのお二人だ。再び日本チームを世界の頂点に立たせるべく奔走する両監督に、これまでの歩みを振り返っていただくとともに、選手指導に懸ける思いを語り合っていただいた。

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新たなスタートに立つ

高倉 この間はなでしこジャパンの試合を見に来ていただいたみたいで、ありがとうございます。

中田 とんでもない。でも、寒かったですね。それに雨の中、ずぶ濡れになりながら高倉さんがグラウンドにずっと立っている姿を見て、これがサッカーなんだって思いました。

高倉 ほんと寒かったんですけど、サッカーって冬のスポーツだから、そういうことは多々あるんです。
その時の試合も含めて代表監督に就任した2016年4月以降、これまでに18試合やってきました。手探りの状態ながら、いまはようやく黒星と白星が同じくらいになってきたかなという感じですね。
大きな流れとしては前監督の佐々木さんがある程度メンバーを固定して素晴らしい成績を収められてきた中、選手の年齢も高くなっていたこともあり、私が就任してからは若手を積極的に代表に入れてきました。チーム全体で見ると若手・中堅・ベテランといった3つの層に分かれていて、それぞれに課題があるんです。
ですから各層ごとにテコ入れをするとともに、全体の底上げになればと、少しでも可能性のありそうな選手がいれば「宇宙人枠」という枠も設けて、新たに代表メンバーに呼ぶこともしてきました。

中田 宇宙人枠(笑)。

高倉 守備はできないけれど、とにかく得点能力だけは高いとか、ちょっと違うプレーで雰囲気を出している選手なども組み込めないかなというのでチームづくりをしてきました。
2018年4月にはワールドカップ予選があるんですけど、やっぱり本番の戦いをしないと経験は積めないんです。トレーニングマッチだけではダメで、選手が本気になって勝負のかかったプレーをすることで見えてくるものがある。
現段階でメンバーの8割方は決まっていますが、「目標としている地点に対して、いまどの段階ですか?」とよく聞かれるじゃないですか。でも、その都度足りない部分をばらばらに積み重ねながらやっているので、答えに困りますね。

中田 それって、なかなか人に理解してもらえないですよね。「レポートを上げてください」なんて言われると、困ってしまう。化学反応のように選手たちが入れ替わっていく中で、ぎしながらチームを一つの方向に持っていくわけじゃないですか。

高倉 ほんとにそのとおりです。

中田 それにたぶん女性って男性とは違って、螺旋らせん階段みたいに力がついてくるんです。だから日々の練習を繰り返しつつ、選手たちのモチベーションを下げないようにうまくコントロールしながら強化するという意味では、どの段階かなんて分からないですよ。
私も全日本監督に就任する際に、スタッフを替え、選手も入れ替わる中、ほとんどゼロに近い状態からのスタートでした。国際経験のない選手を半分以上入れていたので、当初は試合に負けるとどよーんと沈んじゃう。経験がないからどうすればいいのか分からない。
だから最初の頃は浮き沈みをなるべくなくすように、「いま持っている力で負けてしまったのであれば、それは構わない」「よくやった、また明日からもう少しうまくなるために頑張ろう」って言いながら無理やり選手たちの頭を上に向かせていました。選手やスタッフと一緒になって、「とにかくやり切ろう!」っていうことで、がむしゃらに戦ったワンシーズンでした。

高倉 手応えとして感じていることはありますか。

中田 思った以上に結果は出たと思っています。世界との差っていうのは確かにありますけど、東京オリンピックまでのスパンで考えたら、現段階でやるべきことはクリアできているという感触があります。とはいえ来シーズンも同じことをやっていては勝てないので、どういう人材を使って、どう強化していくかっていうことは常に考えていますね。

バレーボール全日本女子監

中田久美

なかだ・くみ

昭和40年東京都生まれ。15歳でバレーボール全日本女子に初選出。高校卒業後、日立製作所に入社。セッターとして3度五輪に出場し、ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得。平成23年久光製薬スプリングスのコーチを経て、翌年監督に就任。在籍中、国内の主要大会すべてでチームを優勝に導く。28年バレーボール全日本女子監督に就任。

それぞれの監督就任

中田 でも、お手本がいないだけに苦労も多いんです。高倉さんって女性で初めてですよね、日本女子代表で監督になられたのって。

高倉 そうなんです。

中田 だから同じだと思いますけど、ほんとに大変。私は2人目にはなるんですけど、これだけ長いスパンになると初めてなんです。
ただ、全日本の監督って、なりたくてもできるものでは全然なくて、まして東京オリンピックを迎えるってことを計算していたわけでもないんです。そういった意味では、これはタイミングと流れが来たんだなと。
私は過去の東京オリンピックで金メダルから始まった競技に携わっているので、扉を開いた時から「金メダルを取る」というミッションしかなかったんです。そういう歴史と伝統のある競技だけに、それを引き継ぐという部分ではすごく責任を感じました。それに人の夢を背負う仕事でもあるので、監督になるにはそれなりの覚悟は必要でしたね。

高倉 監督就任はどういった経緯で決まったのですか?

中田 まずは強化委員の前で、数名の候補者が目標とするチームづくりのプレゼンをするんです。その上で、理事会に上げられて決まりました。
高倉さんはどうでしたか?

高倉 それが私の時は事前に何の話もなかったんです。当時、私は23歳以下の選手を連れてスペインにいたんですけど、大阪でリオオリンピック予選が行われていて、初戦でなでしこが負けてしまったんです。それでマスコミに結構叩かれて、向こうでパソコンを見ていると「なでしこピンチ」「なでしこ分裂」とか、そんな感じで書かれていました。
さらに予選敗退が濃厚になると、ネット上には「佐々木監督解任、後任に高倉氏」、みたいなことが書かれていて、「え、私がやるの?」っていう感じでした(笑)。

中田 それは驚きますよね。

高倉 そういう流れの中で、正直、私にできるかなっていう不安はありましたけど、その一方でなでしこがそのまま落ちていくのがすごく嫌だったんです。「なでしこはもうダメだ」みたいに世間で言われていたのが、すごく悔しくて。
日本の女子サッカーは長いこと誰にも見てもらえない時期があって、Jリーグができた時も、それに付随して「女子もありますよ」というレベルでしかなかったんです。バブル経済の崩壊後にはリーグ運営ができないような状況に陥ったこともある中、「自分たちが必死にやらなかったら、誰にも注目してもらえないし、サッカーをやる環境すらなくなってしまう」という危機感が、選手の間でずっとあったんです。

中田 その思いがなでしこの活躍につながったわけですね。

高倉 2011年にワールドカップで優勝したメンバーはそういう苦労してきた先輩の姿を間近で見ていたんです。それだけに「女子サッカーのために」っていう思いがすごく強くありました。
ですからチームを預かる上でのプレッシャーという意味では、昔から注目を浴びてきたバレーとは少し違うのかなって思うんです。でも、これで勝てなかったら女子サッカーがすたれるとか、先ほど言われたように人の夢を背負うとか考え出したら、監督なんて引き受けられないですよ。だから余計なことは考えなかった。自分がやれることを、やるしかないからって。

中田 でも、結局そうですよ。やれることをやるしかない。私も監督就任後、重圧に押し潰されそうになっていた時に、シンクロの井村先生から「バレーボールにそこまで命を懸けちゃダメよ。もっと楽しんだほうがいいわよ」って言われたことで、救われましたから。

高倉 あんまり軽いことを言うと、「何言ってるの?」と言われるんですけど、少し心に余白がなかったら、周りが何も見えなくなってしまうと思うんですよ。それに、やるのはあくまで選手だから。

中田 そうそう、最終的には、選手がやることですからね。

サッカー日本女子代表監督

高倉麻子

たかくら・あさこ

昭和43年福島県生まれ。15歳でサッカー日本女子代表に初選出される。高校2年生から読売日本サッカークラブ・ベレーザ(現・日テレ・ベレーザ)でプレー。日本女子代表では通算79試合に出場し、歴代7位の29得点を記録。平成26年監督として17歳以下の女子ワールドカップで日本を初優勝に導く。28年サッカー日本女子代表監督に就任。