2020年7月号
特集
百折不撓
  • 無酸素登山家小西浩文

危機から生き残った人の習慣

酸素ボンベをつけず、体力と精神力を鍛え上げることで8,000メートル級の山々を踏破してきた無酸素登山家の小西浩文氏。幾度も命の危機に遭遇しながらも、それを回避してきた小西氏は、 どのような心の習慣を身につけていたのだろうか。

    この記事は約14分でお読みいただけます

    想像を絶する環境と仲間の死

    登山家は常に死と隣り合わせです。しかも、それが8,000メートル級の山ともなれば、なおさらです。私は1982年、20歳の時にチベットの8,000メートル峰シシャパンマに無酸素で登頂して以降、15年後の1997年には当時日本人では最多となる8,000メートル峰六座無酸素登頂を達成しました。

    富士山の優に2倍以上の標高がある8,000メートル級の山々は、まさにデスゾーン(死の世界)。酸素量は平地の3分の1にまで減り、少し体を動かすだけでも苦しく、意識は常に朦朧もうろうとした状態が続きます。頭痛や吐き気など様々な症状と闘いながら、酸素ボンベを使わず体力と精神力だけで勝負するわけですから、その苦痛は想像を絶します。わずかな失敗や油断が死を意味することは、言うまでもないでしょう。

    幸い、私はどんな厳しい登山でもかすり傷一つ負うことなくここまで来ましたが、死に直面した経験は10回以上に及びます。かけがえのない仲間を失ったこともありました。一つのいただきを目指し、共に支え合い励まし合いながらいくつもの難所を越える中で、仲間との間には何ものにも替え難いきずなが生まれます。その仲間を失うことは登山家としての最大の悲しみです。

    1996年秋、私は標高8,848メートルのエベレストの無酸素登頂に挑みました。パートナーはロブサン・ザンブーというネパールの高地民族の男性でした。標高7,500メートルの斜面を登っていた時、私たちのはるか上、標高8,000メートルの地点で大雪崩なだれが発生したのです。幅200メートルもある見たこともない巨大な雪崩が、時速数100キロという信じられないほどのスピードで目の前に迫ってきます。しかも、酸素が希薄で一歩を踏み出すだけでも重労働に思える世界にあっては、走って逃げることもままなりません。

    この大雪崩を私に教えてくれたのは10メートル前方を登っていたロブサンでした。彼の指笛のおかげで私は大雪崩に気づき、そばにあった氷壁にへばりつきました。固い氷壁の後ろを大雪崩がすさまじい勢いで流れ去り、私は間一髪のところで一命を取り留めましたが、ロブサンはそのまま大雪崩に巻き込まれて1,000メートル下に転落、帰らぬ人となりました。その遺体はいまだに標高6,500メートルの雪の下に埋もれたままです。彼は命をかえりみずに私に危険を知らせてくれた、文字通りの命の恩人でした。

    無酸素登山家

    小西浩文

    こにし・ひろふみ

    1962年石川県生まれ。15歳で登山を始め、1997年に日本人最多となる「8,000メートル峰6座無酸素登頂」を記録。20代後半から30代前半にかけて3度のがん手術を経験。がん手術の合間に2座の8,000メートル峰、ブロード・ピークとガッシャーブルムⅡ峰の無酸素登頂に成功。がん患者による8,000メートル峰の無酸素登頂は人類初となる。現在は、経営者向けの講演活動なども続ける。