2019年8月号
特集
後世に伝えたいこと
  • 知覧特攻平和会館語り部川床剛士

知覧からのメッセージ

特攻隊の若者たちが遺したもの

第2次世界大戦末期、祖国日本、そして愛する人を守るために沖縄の海へと消えていった陸軍特別攻撃隊(特攻隊)の若者たち。戦後70余年が過ぎたいま、彼らが命を懸けて遺したメッセージを、いまを生きる私たちはどのように受け止めればよいのか。知覧特攻平和会館の語り部を長年務めてきた川床剛士さんに語っていただきました(写真:知覧特攻平和会館に保存されている「海軍零式艦上戦闘機」の前で)。

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特攻隊の語り部は自分の使命

私が30数年勤めた陸上自衛隊を退官し、故郷の鹿児島に帰ってきたのは1995年、55歳の時でした。それから地元の建設会社で60歳の定年まで働き、この先どうしようかなと思っていた矢先、「知覧ちらん特攻平和会館の語り部になりませんか」と役場の方にお声掛けをいただいたのでした。

ただ、地元のことであるにもかかわらず、それまで私は特攻隊や知覧特攻平和会館について詳しくは知りませんでした。しかし陸上自衛隊で指揮官、教官などをした経験が何か役に立つかもしれない、地域の発展にも貢献できるかもしれない。そして何より、特攻隊の歴史や彼らが遺した思い、戦争の悲惨さを後世に伝えていくことは、先の大戦で戦死した父の思いを伝えることでもあり、自分の使命なのかもしれないとの思いで、語り部になることを決めたのです。

以来、特攻隊について勉強を重ね、毎年国内外から訪れる約40万人の来場者の方々に講話を行ってきました(修学旅行で訪れる学校は年間約500校)。また、全国の企業や団体におもむく出張講話や特攻隊に関する資料収集、特攻隊に関する英語書籍の編集・展示資料の英訳にも取り組んできました。

特攻隊について理解するにはまずその歴史的背景を知っておく必要があります。日本が明治維新を経て開国した当時、東南アジアのほとんどの国々が欧米列強の植民地になっていました。このままでは日本も同じ道を辿たどるかもしれない。そう危機感を覚えた明治政府は、軍事力を強くする、産業を興す、国民を教育する、という3つの大きな政策を立て、欧米列強に追いつこうと努力を重ねます。

しかし、欧米列強はどんどんアジアに進出してきます。そこで日本は、欧米列強の勢力を排除して一つのアジアとして共に栄える地域をつくろうと、「大東亜共栄圏」という大きなスローガンを掲げ、東南アジアに進出していくのです。ですから、いまの人は先の大戦を「太平洋戦争」と呼んでいますが、当時は「大東亜戦争」と言っていました。特攻隊の手紙や遺書にも太平洋戦争という言葉は出てきません。彼らは皆「大東亜戦争」のもとに戦ったのです。

太平洋戦争は1941年12月8日、ハワイのオアフ島真珠湾にあるアメリカ海軍基地への奇襲攻撃から始まりました。緒戦では日本軍が圧倒的に強く、あっという間にオーストラリアのすぐ近くまで進出しました。ところが、半年ほどすると、アメリカを中心とする連合軍が態勢を整えて反撃してきました。強大な連合軍に押された日本軍は負け戦が続き、開戦から4年目の1945年初頭になると、日本本土も頻繁ひんぱんに空襲を受けるようになり、沖縄がいよいよ危なくなってきます。

そこで、沖縄を何とか守り、あわせて本土決戦の準備をするために考え出されたのが「特攻作戦」だったのです。圧倒的な物的戦闘力を持つアメリカの侵攻を阻止するには、兵隊一人ひとりの精神力を武器とした特攻しか手段がないという結論に達したのでした。

知覧特攻平和会館語り部

川床剛士

かわとこ・たけし

昭和15年鹿児島の知覧町生まれ。昭和38年3月防衛大学校を卒業後、陸上自衛隊に任官し指揮官、幕僚、教官職等を歴任。定年退官後は、地元企業を経て平成12年10月から知覧特攻平和会館の語り部として従事。