2025年12月号
特集
涙を流す
対談
  • 元総合格闘家大山峻護
  • パラサイクリング選手官野一彦

喜びも悲しみも、
すべてを
人生のギフトに

世界の強豪ひしめく総合格闘技界で長く活躍し、引退後は企業向け研修「ファイトネス」の普及や絵画の制作など、多方面で人々の幸福実現のために力を尽くしている大山峻護氏。事故による頸椎損傷という苦難にも屈せず、2016年のリオデジャネイロパラリンピックにて日本車いすラグビー史上初の銅メダルを獲得し、現在はパラサイクリング選手として飽くなき挑戦を続ける官野一彦氏。人生の様々な山坂を経験してきたお二人が語り合う、勝利への道、人を生かし自らを生かす道とは――。

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    人のために走りなさい―人生を変えた言葉

    大山 お互い普段からよくお会いしていますけれども、これまでこうした対談の機会はなかったので、きょうはとても楽しみでした。そもそも官野君とは、最初どんなご縁でお会いしたんでしたっけ?

    官野 共通の友人の紹介で、2020年にお会いしました。コロナでしたから、Zoomズームでお話しさせていただいたんです。

    大山 ああ、そうでしたね。友人から「車いすラグビーで日本初のパラリンピック銅メダルを獲得したすごい人がいる」と紹介されたのが出逢いのきっかけでした。

    官野 僕は大山さんが活躍された総合格闘技イベント「PRIDEプライド」がとても好きで、よく見ていましたから、Zoomの画面越しにお目にかかった時、「あのPRIDEの大山峻護だ」と感激でした(笑)。

    大山 私も官野君とZoomで初めてお話しした時、すごく自信にあふれ輝いて見えました。ご自身の障がいのことも含めすべてを受け入れている人だという印象を受けたんです。すごい男だなと。

    官野 そう言ってくださって嬉しいのですが、明るく振る舞ってはいたものの、その時期の僕はすごくつらい状況でした。2016年のリオデジャネイロオリンピックで銅メダルを獲得した後、東京2020パラリンピックの金メダルを目指し、勤めていた役所を退職して競技に専念することにしたんです。よりよい環境を求めて、アメリカに2年間留学するなど努力を重ねたのですが、結果的に日本代表に選ばれることはなかった……。
    何よりも苦しかったのは、ふと後ろを振り返ると、自分について来てくれる人、応援してくれる人が誰もいなかったことでした。

    大山 周りに応援してくれる人がいない……一番辛いですよね。

    官野 アスリートですから、他の人を振り落としてでも、活躍の場をつかまなくてはいけない現実は確かにあります。でも、自分の言動の積み重ねがいまの孤独な現状をつくったのだと思うと、これまで頑張ってきたことは何だったんだろうと虚無感に襲われ、焦りと不安からうつ状態になったんです。
    そんな時、大山さんとZoomでお会いしたのですが、いろいろお話しする中で、大山さんはこうおっしゃってくださいました。
    「官野君がこの先、どんなにすごいことを成し遂げても、誰も喜んでくれなければむなしいんだ。人は誰かが喜んでくれるからこそ自分も嬉しいんだよ。だから、官野君、人のために走りなさい」

    この言葉を聞いて全身が震え、これまでとは違う世界がパーッと開けたのをいまも覚えています。

    大山 私も格闘家時代、自分さえよければいいと思っていた時期があって、いろいろうまくいかずもがいてきました。でも自分のエゴではなく、皆を喜ばせたいという思いにフォーカスしてリングに上がった時、不思議とよいパフォーマンスを発揮できて、勝った時の充実感も全然違ったんですね。
    その体験を悩んでいる官野君に伝えることで、自分のためではなく人のために頑張る大切さに気づいてほしいと思ったんです。

    官野 大山さんの言葉をきっかけに、僕は人のために走るってどういうことだろう、人を喜ばせるために自分に何ができるだろうと考えました。最終的に出した結論は、誰もついてこない中でも、自分を支えてくれている家族や数少ない友人がいる、彼らを裏切らないため、喜ばせるためにこれからも挑戦し続けることだったんです。
    それで車いすラグビーを引退することを決め、いまのパラサイクリング(障がい者のための自転車競技)に転じ、改めて世界に挑戦することにしたんですね。ですから、パラサイクリング選手として新しいスタートを切れたのは、大山さんとの出逢いがあったからですし、大山さんの言葉が僕の人生を本当に変えてくれたんです。

    大山 でも、その言葉を受け止めて実践するというのは、なかなかできることではないですよ。私も人のために頑張ることが大事だと言いながら、現役中にどこまで実践できていたかは分かりません。その点、官野君がうらやましいですね。私ももっと早く気づいて実践していれば、もっと試合で勝てていたかもしれない(笑)。

    官野 パラサイクリングの練習や試合中に苦しくなった時、応援してくれる人たちの顔を思い浮かべるようにしています。すると、もうちょっといけるはず、もうちょっと頑張ろうって思えるんです。
    大山さんのおっしゃったことは、こういうことだったんだと実感する毎日ですし、これがアスリートとして一番幸せなことかもしれないと感じるようになりました。
    一昨年(2023年)は世界ランク13位、昨年は9位と順調に歩んできて、今年1月のアジア選手権で優勝したこともあり、世界ランク1位になりました(現4位)。ただ、この8月の世界選手権では、体調管理がうまくいかなくて、残念ながら9位に終わってしまいました。
    これからも、順位を1つでも上げて表彰台を狙っていくことはもちろん、多くの人に「頑張れ!」と応援されるアスリートを目指して挑戦を続けていきたいですね。

    元総合格闘家

    大山峻護

    おおやま・しゅんご

    昭和49年神奈川県生まれ。5歳から柔道を始め、中学2年生で講道学舎に入る。平成5年作新学院高等学校卒業、9年国際武道大学卒業。10年第28回全日本実業柔道個人選手権大会・男子81kg級優勝。13年柔道選手からプロ格闘家に転身。22年「マーシャルコンバット」ライトヘビー級タイトルマッチ王座獲得、24年初代ROAD FCミドル級王座獲得。26年現役引退。現在は格闘技を応用した研修プログラム「ファイトネス」を通じて、教育機関や企業などでチームビルディング、メンタルタフネスに尽力している。また、令和2年に一般社団法人You-Do協会を立ち上げ、アスリートと児童養護施設等の子供たちを繋ぐ活動にも取り組む。著書に『ビジネスエリートがやっているファイトネス』(あさ出版)などがある。

    人生のまさかは予告なしにやってくる

    官野 大山さんも、格闘家を引退した後もいろいろなことに挑戦されていて本当に素晴らしいです。

    大山 私は26歳で総合格闘技の世界に入り、2014年、40歳の時に現役を引退しました。
    以後、格闘技とフィットネスを融合させた企業向けの研修「ファイトネス」(社員同士でミット打ちなどを行い、健康増進と組織の一体感を高める研修)の普及に取り組んだり、2020年には妻とYou-Do協会を立ち上げ、アスリートと障がいを持つ子供や児童養護施設の子供たちの交流を深める社会活動にも取り組んできました。
    それで最近、趣味で絵を描くようになったのですが、実はそのタイミングで難病の「アミロイドーシス」を宣告されたんです。
    昨年、妻と一緒に歩いている時、息が上がったので、おかしいと思って近くの病院に行ったら、別の大きな病院で検査入院することになって、最終的に今年4月、難病であることが分かったんです。

    官野 ああ、突然難病に……。

    大山 これは神経や心臓に障害が出て、息切れやしびれ、不整脈など様々な症状を引き起こす進行性の難病で、いまのところ治療法はないんですね。ただ、尊敬するアントニオ猪木さんが亡くなったのもこの病気ですから、運命を感じていますし、何より〝死〟を身近に感じるようになったことで、長いと思っていた人生、残された時間がすごくいとおしくなりました。
    趣味で始めた絵にしても、難病だと分かってから、皆が何かを感じてくれる作品を1つでも多く残したいという思いが込み上げてきましてね。本気で向き合うようになって、この12月に都内で個展を開催するまでになりました。
    ですから、この難病も自分を成長させてくれる〝ギフト〟だと受け止め、感謝しているんです。

    官野 僕もある日突然、事故に遭って障がい者になりました。「明日、君は障がい者になる」なんて誰も教えてくれませんでした。
    難病と障がいを比べることはできませんが、私も障がい者になった時、人生、明日どうなるか分からないことに気づかされ、「きょうも頑張った」と言える悔いのない日々を送ろうと決めました。
    ただ、大山さんのように、難病をギフトだと感謝して受け止められるかどうか……。やはり大山さんはすごい人だと思います。

    パラサイクリング選手

    官野一彦

    かんの・かずひこ

    昭和56年千葉県生まれ。野球の強豪・木更津総合高校にスポーツ推薦で入学し、1年生からレギュラーで活躍。卒業後はサーフィンを始めるが、平成16年22歳の時にサーフィン中の事故により頸椎を損傷し、車いす生活となる。18年車いすラグビーを始め、ロンドン、リオデジャネイロと2大会連続でパラリンピックへ出場。リオでは日本車いすラグビー史上初の銅メダルを獲得。令和2年車いすラグビーから引退し、現在はダッソー・システムズ株式会社所属のパラサイクリング選手としてロサンゼルスパラリンピックを目指している。同2年TAGCYCLE株式会社を設立し、様々な活動を通じて社会に貢献している。