2021年7月号
特集
一灯破闇
対談
  • (左)日本国際童謡館館長大庭照子
  • (右)日本童謡学会理事長海沼 実

童謡が
日本の未来をひらく

かつて日本の子供たちは、よく童謡を歌っていた。学校でも童謡が歌われ、テレビやラジオからも童謡が流れていた。近年、そういう環境が廃れてきている。それが子供たちの心の成育に影響を及ぼしていることはないだろうか、生活の中にもう一度童謡を取り戻すことが、現在の日本の様々な問題を突破する契機になるのではないか——。童謡の力を信じて、童謡の普及に尽力されている日本国際童謡館館長・大庭照子さんと日本童謡学会理事長・海沼 実氏に語り合っていただいた。

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童謡を広める同志として

大庭 きょうは海沼理事長とお話しができるのが楽しみで、喜び勇んでまいりました。私は何十年も前から童謡の普及運動に取り組んでまいりましたが、なかなかうまくいかないことも多かったんです。そんな折、3年前に日本童謡学会が設立されまして、その代表、理事長に童謡作曲家の海沼みのる先生のお孫さんが就任されるということで、紹介していただき、初めてお会いすることになったんですね。

海沼 そうでしたね。

大庭 お会いしてびっくりしました。こんな素敵なさわやかな方がお孫さんだなんて想像もしていなかったんです。その後、コロナで時間がとれたので、ゆっくりお話をさせていただくことができましたし、講演にも伺ってお話をお聞きして、いまは海沼理事長にこれからの童謡の世界を託せるという喜びでいっぱいなんです。

海沼 私も本当に童謡の未来を考えて動いている人は、現在の日本には自分しかいないのではないかと思っていたのですが、大庭先生とお会いして「もう1人いた!」と。逆に大庭先生からは「理事長にあって自分にない部分は歴史をよく知っていることと若さだ」と何度も言われて、私としては同志に巡り合えたような気持ちです。

大庭 何度か行き来をしてお話をさせていただいて、お互いにいままでやってきたことの擦り合わせができましたね。

海沼 ええ、そうなんです。いろいろな活動をされていた中で、大庭先生が中断されていたことに実は私が取り組んでいたり、様々な面でつながってきた。同じ方向を見ているから、やることも考えることも同じなんだなと思いました。

大庭 私は童謡を通した文化ビジネスの可能性を考えていて、音楽学校を出ても仕事のない方たちの応援ができるんじゃないかという思いから、無我夢中でやってきました。なかなかうまくいかなかったのですが、理事長とお話をしてその理由がよく分かりました。私は思いだけが先行し、童謡の世界が成り立ってきた歴史を知らなかった、きちんと勉強していなかったんですね。根幹が分かっていなかったんです。

日本童謡学会理事長

海沼 実

かいぬま・みのる

昭和47年東京都生まれ。幼少期から祖父・海沼實が創設した合唱団「音羽ゆりかご会」の一員として童謡に親しんで育つ。明治大学文学部卒業。NHKラジオ「ラジオ深夜便」に出演。新聞コラムの執筆、講演の他、音楽指導者の育成にも携わる。日本歌手協会理事、日本ペンクラブ会員。平成30年より現職。著書に『海沼実の唱歌 童謡読み聞かせ1、2』(東京新聞出版局)などがある。

赤い鳥運動と童謡ブーム

大庭 簡単に童謡の歴史を辿たどると、日本の童謡の草分けは、大正時代に子供たちに質の高い文学を与えたいと考えた芸術家の方たちが『赤い鳥』という文芸雑誌を発刊して始まった「赤い鳥運動」なんですね。日本にはもともとわらべ歌があって、明治時代に入ると文部省唱歌ができますけれど、国の関与が強かったから、その反発として民間に赤い鳥運動が生まれて童謡が誕生したわけですね。

海沼 学校の唱歌は内容も含めて教条的で硬かったんです。そういうものを子供の教育に使うのはいかがなものだろうという意見が民間の文学者から出て、子供のために知恵を絞って何かやろうじゃないかというので始まったのが『赤い鳥』です。そして、そこに発表された詩に曲がついて生まれたのが童謡なんですね。

大庭 私はそれをまったく知らなかったんですよ。最初はとにかく歌手として成功して、有名になって故郷に錦を飾りたいという気持ちだけでした。クラシックでは芽が出ないと思ったので、ポピュラーに転向し、シャンソンにも挑戦しましたが鳴かず飛ばずで、クラブやホテルのレストランで歌っていました。このままでは先が見えないと思っていた時に、NHKの「みんなのうた」で『小さな木の実』を歌うチャンスをつかみました。それがヒットしたことがきっかけとなって童謡の道を歩むことになったんです。
それ以降、全国の小・中・高校、養護学校(現・支援学校)、ろう学校・盲学校でスクールコンサートを開くようになりました。子供たちと接するようになって「童謡はこんなに心を豊かにし、楽しく学べるものなのか」とまた私自身の子供時代を振り返ることができました。

海沼 それはまさに童謡の持つ力ですよね。
そこに繋がる話でもあるので、もう少しだけ歴史的な話をしたいのですが、戦後期には童謡が大ブームになったんです。国民的に知られている曲が1曲あれば孫の代まで食べられると言われる中、私の祖父・海沼實は代表作の『みかんの花咲く丘』『里の秋』『お猿のかごや』の他、当時は『あの子はたあれ』や『ちんからとうげ』など、つくる歌が軒並みヒットするような人気作曲家だったんです。
ただ、祖父は童謡をビジネスとして考えていたわけではありません。祖父には童謡を活用して次世代の子供を育てたいという夢があったんですね。そして、そのお手本になるようにと、教え子の子供たちに童謡を歌わせました。しかし、この子たちがスターになると、祖父の意に反し、ビジネスとして童謡を利用しようとする人がたくさん出てきたんですね。

私自身は童謡で道徳心と宗教観が養われたと信じていますが、これらはいまの日本ではだんだん薄れてきていますよね。それは何事もビジネス優先で、根本の人づくりのところで、日本人が持つべきアイデンティティや理念といったものへの意識が薄れているからだと思うんです。高度成長期における童謡のビジネス化も、それに拍車をかけたと思っています。

大庭 ああ、そうですね。私自身も童謡の世界に飛び込んだのは、自分の生活安定のためという理由が1番でした。1人で何度もNHKに行き、「みんなのうた」の担当ディレクター若林尚司さんに必死で売り込んでつかんだチャンスだったものですから……。なんとしても生かしたいと思ってスクールコンサートを続けるうちに、自分に続く童謡を生業なりわいとして取り組む歌手を育成したいと思うようになって童謡運動に取り組みました。その結果、故郷の熊本・阿蘇に日本国際童謡館を設立するに至ったんです。しかしこれは残念ながら思惑通りにはゆかず失敗しました。
でも、いまお話しいただいたような歴史を知っていたら、私の童謡への取り組み方は全く違ったものになっていたかもしれません。

海沼 昭和40年代頃の童謡のテレビ番組を録画で見ていると、アナウンサーの方から演奏家の方たちまで「昔あったよい曲が最近は歌われなくなった」と嘆いています。たぶん大庭先生はそれを肌感覚で感じられて、自分がやらなきゃ、ということで動かれていたのではないかと思います。

日本国際童謡館館長

大庭照子

おおば・てるこ

昭和13年熊本県生まれ。35年フェリス女学院短期大学音楽科声楽科専攻科卒業。46年NHK「みんなのうた」で『小さな木の実』を歌い童謡の道へ進み、翌年「大庭照子のスクールコンサート」を全国で開催。3,000校以上の学校を回る。50年大庭音楽事務所設立。平成6年熊本・阿蘇に日本国際童謡館を設立、館長となり、11年にNPО法人の認可を受ける。著書に『「小さな木の実」とともに』(家の光協会)がある。