2018年3月号
特集
てん ざいしょうずる
かならようあり
インタビュー③
  • 山下弘子

病が私に人生の意味を
教えてくれた

山下弘子さん。19歳で肝臓がんを発症、余命半年と宣告されながら、25歳のいまも明るく活動を続けている。山下さんが病と向き合う中で、どのような人生観を培っていったのか。現在の思いの一端を語っていただいた。

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「余命半年」の宣告を受けて

——きょうは愛車で駅まで迎えにきてくださって、ありがとうございました。拝見したところ、とてもお元気そうですね。

だけど、結果は全然ついてこないんですね。科学的(医学的)な数字だけを見ると、どうしてこの人が生きているんだろう、という感じだと思います。
肺の中に無数のがん細胞があって、あと肝臓にもリンパにも心膜しんまくにも転移していて、生きているのが不思議な状態らしいんですけど、あまり実感がないんですね。
確かにゴホンとせきをするとパッと血が出て、皆さんそれを聞くと驚かれるんですけど、私にとってはそれが普通だったりするんです。
  
——いまはどのような生活をされているのですか。

一昨年(2016)に結婚しましたので、主婦としての仕事が中心ですが、それ以外にも母が経営する貿易会社で経理の手伝いをしたりしています。少し前までは要望があれば講演をお引き受けしていたのですが、講演ってすごくしんどいんです。「このテーマで」と言われるとどうしても相手の期待に応えることを意識してしまって、なかなか自分に正直になれない。何だか自分にうそをついている気がして、最近はあまりやっていません。
  
——がんが見つかったのは19歳、大学1年生の時だそうですね。

ええ。2012年秋の大学のオリエンテーション、後期の講座が始まろうとしている時でした。お昼休みに突然胸が苦しくなり、呼吸する度に刺激するような痛みがあって、近所の病院で調べてもらったら、「いますぐに大きな病院で検査してもらってください」とだけ言われたんです。
2日後に検査をしたら、私の頭よりも大きい、お医者さんが見たこともないようながんが見つかったんですね。胸が痛くなったのは、呼吸する度にがんが肺に当たっていたせいでした。がんは破裂寸前にまで巨大化していて、もし、ちょっとした衝撃でも受けていたら内出血で即死していたでしょう。健康な人は最大で20と言われる腫瘍しゅようマーカーの数値は7万。お医者さんもこれだけの数値は見たことがないとおっしゃっていました。
  
——ショックも大きかったでしょうね。

私は最初、いまお話ししたようなことを一切知らされていませんでした。母は、娘さんが余命半年で、しかも外科的な手術はもちろん、放射線治療も化学療法も打つ手がないと告げられた時、茫然ぼうぜんとして言葉を失ったといいます。
その日の夜、私がトイレに行こうとリビングの横を通ったら父と母、祖母の話し声がして「肝臓がん」「余命半年」というキーワードが耳に入ってきました。後のことはよく覚えていません。気がついたらベッドの中にいて、たぶん泣いていたと思います。

山下弘子

やました・ひろこ

平成4年父親の赴任先である中国で生まれる。立命館大学法学部に在学中、肝臓がんが発覚。病と向き合いながら講演、執筆活動等に尽力。著書に『人生の目覚まし時計が鳴ったとき』(KADOKAWA)『雨上がりに咲く向日葵のように』(宝島社)。