2018年3月号
特集
てん ざいしょうずる
かならようあり
  • 「冥加訓を読む会」代表本田耕一

『冥加訓』の教えに学ぶ

天から与えられた命を、いかに生きるか

九州・岡藩の儒学者・関 一楽が著した『冥加訓』という書物がある。人間は誰でも天から与えられた職分があり、人の道に則ってその職分を全うすることの大切さなどを説いた書である。私たち現代人の生き方にも様々な示唆を与える『冥加訓』の教えを、地元・大分県竹田市の研究家である本田耕一氏に紐解いていただいた。

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岡藩の教育の源流となった『冥加訓』

冥加訓みょうがくん』という書物はご存じなくても、一昨年(2016)公開された映画『殿、利息でござる』をご覧になった方はいらっしゃると思います。仙台藩の宿場町・吉岡宿が疲弊ひへいして存亡の危機にあった時、地元の有志たちが商家に伝わってきたある教えをヒントに策を練り、見事に再興を図ったという実話がモデルになった映画です。この商家に伝わった教えこそが、岡藩(大分県竹田市を中心とする一帯)の儒学者であり医者でもあった関一楽せきいちらく(1644~1730)が著した『冥加訓』だったのです。

私は長年、竹田市職員として奉職し、市立図書館に保存された古書の中に『冥加訓』の版本があることは知っていましたが、恥ずかしながらそれが岡藩と深い関わりのある書物だという認識はありませんでした。一楽は地元では関幸甫こうすけという名前で知られており、映画を観るまで両者は別の人物だと思っていたからです。
 
岡藩で『冥加訓』はどのように受け入れられたのか、また吉岡宿をはじめ後世にどのような影響を与えたのか。そのことに強い関心を抱いた私は、長年古文書の解読に取り組んでいた経験を生かし、『冥加訓』の版本をもとにして、その現代語訳(意訳)を思い立ちました。地域づくりの有志5人とともに「冥加訓を読む会」を立ち上げ、約1年の作業を経て私家本しかほんとして上梓じょうししました。

『冥加訓』を説明する前段として、関一楽という人物について触れておくことにします。残念ながら一楽に関する史料は少なく、出身地である岡山にもほとんど残されてはいません。限られた史料をもとに見ていくと、一楽はもともと備前岡山の医師でしたが、1685年、岡藩の第4代藩主・中川久恒によって藩儒はんじゅとして招聘しょうへいされます。ちょうど、江戸時代中期、武断政治から文治政治への移行期で、儒教文化が花開かんとする頃でした。
 
しかし、藩主に『小学』を講釈して日常生活の心得や道徳について説いたものの、自らが期待されたほどの見識を持っていなかったことを恥じた一楽は1695年、京都の伏見に隠棲いんせいしていた中村惕斎てきさい(仲二郎)の門弟となり、約1年間、学問に精励するのです。
 
中村惕斎は伊藤仁斎じんさいと並び称された大学者で、博識においては仁斎を越えるとも言われていました。国内初の図解事典『訓蒙図彙きんもうずい』など向学のための手引書も数多く出版されており、難解な教えを平易な言葉で具体的に解説していく教育の姿勢は一楽にも大きな影響を及ぼしたと考えられます。
 
京都から帰藩した一楽は家老や重臣に『書経』を講じ、やがて自宅を兼ねた塾(輔仁堂ほじんどう、後の藩校・由学館ゆうがくかん)を設けて藩士の子弟たちを教育するようになります。『冥加訓』は子弟たちに四書五経を解説する際、その手引書として著したものと推測されますが、実際、その中身はとても平易で、武家だけでなく商人などにも広く読まれ、後の藩政改革に大きな影響を及ぼしました。岡藩の教育の源流を探る上で重要な史料であることは間違いありません。
 
私自身も『冥加訓』に目をとおした上で『論語』や『孟子もうし』『中庸ちゅうよう』を読むと、新たな発見をすることが度々です。

「冥加訓を読む会」代表

本田耕一

ほんだ・こういち

昭和18年大阪府生まれ。39年竹田市役所入庁。竹田市立歴史資料館水琴館・古文書講座講師などを歴任し平成4年から図書館長。6年退職。著書(共著)に『三宅山御鹿狩絵巻』(京都大学学術出版会)など。