2020年5月号
特集
先達に学ぶ
  • 花園大学元学長西村惠信

禅の祖師たちに
導かれた我が人生

花園大学元学長の西村惠信氏は2歳で禅寺の徒弟となり、88歳の現在もなお、学術研究の傍ら、一貫して禅の道を歩み続けている。人生で出会った多くの師や、古の祖師たちからの学びを交えながら、禅の教えについて伺った。

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2歳の時から仏の道に

——ご経歴を拝見すると、2歳で出家したと書かれてありますね。

ええ。私は不思議な、不思議な人生を歩みました。もともと寺の生まれではなく、この自坊じぼう(滋賀県東近江市の臨済宗妙心寺みょうしんじ派興福寺)から見える山の向こうの、農家の10人兄姉の末子なんです。後に私の養母となる人がそこに来て、「おたくは男の子がたくさんいるから、1人お寺の小僧に出してほしい」と言ったらしい。4歳上の兄は嫌だといって背中に隠れたので、母のひざまたがっていた2歳の私にお鉢が回ったんです。それも小母おばさんがたもとから出した金太郎あめに手を出したばっかりに(笑)。

——幼くして修行の道に。

私を育ててくれた南明なんめい和尚は、禅僧仲間でも有名な枯淡こたんな家風の人でした。檀家はせいぜい40軒くらいでしたから、二町歩ちょうぶの田んぼの年貢だけで食べているような貧乏寺でした。生活は質素倹約をむねとし、障子にはお布施ふせの紙を貼り、電灯は一つだけで、それに長いコードをつけて、あちこちの部屋に引っ張っていたんです。
師匠はこの寺で朝から晩まで庭掃除ばかりしていました。師匠77年の人生の9割が草引きではなかったかと思うくらい、徹底してやっておりました。朝は4時半に起きるんです。そして5時になると鐘をき、それから本堂でお勤めなどをして私を起こすのですが、朝食が済むと、もう庭に出て作務さむをしておられました。禅寺では1に掃除、2に看経かんきん(経を読むこと)、3、4がなくて5が坐禅といわれます。私も毎日、拭き掃除や、庭の草引きをさせられました。

——厳しい方でしたか。

そりゃあ厳しい人でしたよ。何しろ夕方5時頃、外灯に電気が送られてくると、ピシャッと山門を閉ざして、もう中には入れてくれません。友達と遊びに夢中で気がつかず、寺へ帰ると門が閉まっていました。泣きながら檀家のおじさんに頼んで鍵を開けてもらったことが何回もありました。
寺の隣に神社があるのですが、寺の小僧には、にぎやかな村祭りを見ることすら許されませんでした。
終戦の翌年、幸いにも旧制彦根中学という希望の学校に進学できたものですから、将来は京都や大阪の有名大学に進むつもりでおりました。ところが、師匠は「禅坊主にそんな在家の学校は無用じゃ。妙心寺に大学があるからそこに行け」と。そこで私はしぶしぶ花園はなぞの大学に進学したんです。しかし、いま思うとそれがよかった。

——よかったというと?

当時の花園大学は定員50名で、皆が禅寺の小僧たちでした。入学試験の面接で学長の山田無文むもん老師が、「よう本学へ来てくれました」と言って拝まれたのでびっくりしました。私が入学した年から無文老師の『碧巌録へきがんろく』提唱(講義)が始まり、卒業する年の3月に100回でピッタリ終わった。私の卒業論文の指導教授は西田幾多郎きたろう門下で仏教哲学者の久松真一先生でした。禅学を学ぶ私としては、申し分のないご指導を受けました。
無文老師の提唱の後、全学生が校庭の草引きをやるのですが、ふと隣を見ると、先ほどまで提唱をされていた学長が一緒に草引きをされている。これは衝撃でしたね。
無文老師という方は、当時まだハンセン病が伝染病として恐れられていた時代に、毎年、学生を数名連れて長島愛生園あいせいえん(岡山県瀬戸内市)という療養所を慰問されていましたが、そういうところにも老師の慈悲深いお人柄が、よく表れていると思います。

花園大学元学長

西村惠信

にしむら・えしん

昭和8年滋賀県生まれ。花園大学仏教学部卒業後、南禅寺僧堂柴山全慶老師に参禅。35年米国ペンデルヒル宗教研究所に留学し、キリスト教を研究。45年京都大学大学院博士課程修了。文学博士。花園大学教授・学長、禅文化研究所長などを歴任。平成30年仏教伝道文化賞受賞。『禅語に学ぶ生き方・死に方』(公財・禅文化研究所)『キリスト者と歩いた禅の道』(法蔵館)など著書多数。