2021年11月号
特集
努力にまさる天才なし
  • 鹿角市先人顕彰館館長田中忠美

努力の人・和井内貞行の
生涯に学ぶ

青森・秋田の両県にまたがり、四季の美しい自然が人を魅了する国立公園 十和田湖。しかしここはかつて、魚は棲めないと信じられた未開の湖であった。その根強い迷信と闘い、22年をかけて養魚業を大成させた人物、それが和井内貞行である。地元秋田県鹿角市で顕彰を担う田中忠美氏に、努力に生きた先人の足跡を伺った。

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郷土で親しまれる努力の人

東北地方を稀に見る冷害が襲った1905(明治38)年の9月。十和田とわだ湖のほとりに、自らつくった魚見梯子うおみはしごに上って、来る日も来る日も、取りかれたように水面を眺める人がありました。

湖を見張り始めて何年が過ぎたでしょう。ある風のない日の朝、湖のはるか沖にキラキラと輝く小波が立った瞬間、彼は胸の高鳴りを抑えられなくなりました。浅瀬に押し寄せてくる小波をじっと見つめます。それは何100、何1,000とも分からない魚の群れでした。

「カバチェッポ(ヒメマス)だ。カバチェッポが帰ってきた!」

彼は一目散に我が家へと駆け、悲願の成就じょうじゅを報告し、長年無理をさせてきた妻と、我を忘れて喜び合いました。彼が養魚の志を抱いてから、既に22年もの月日が流れていました。

この人物こそ、私が館長を務める鹿角かづの先人せんじん顕彰館(秋田県)でスペースをいて偉業を伝えている和井内わいない貞行さだゆきです。1988年、その生家跡に建てられた当館では、同じ鹿角の偉人である歴史学者・内藤湖南こなんをはじめ市にゆかりある様々な偉人を取り上げています。1993年、当館は和井内と内藤の伝記を制作し、市内の全小中学校に配布。以来毎年、その感想文コンクールを主催してきました。

「和井内貞行の伝記を読んで、あきらめない心の大切さを学びました」

子供たちは伝記を実によく読み込み、このように素晴らしい感想を寄せてくれます。当館に着任する前、37年にわたって近隣の小中学校で教壇に立ち、鹿角の偉人・先人の事績を紹介してきた私としては嬉しい限りです。

和井内貞行は1858(安政5)年、盛岡藩鹿角郡(現鹿角市)毛馬内村けまないむらに生まれました。和井内家は、盛岡藩主・南部氏の重臣である桜庭さくらば氏に代々仕える旧家です。

長男の貞行は、幼い頃から謹厳実直な父治郎じろう右衛門えもんに中国古典の手ほどきを受ける一方、質素倹約をむねとする気丈な母ヱツからは、3度の食膳にはかまをつけて向かうようしつけられました。こうした両親の厳しくも愛ある教えを受けて、人格の土台を築いていきました。

1866(慶応2)年、9歳になった貞行は、家の向かいに暮らす藩の儒学者・泉澤修斎いずみさわしゅうさいの塾に入門。藩を揺るがす戊辰ぼしん戦争が勃発したのはその2年後でした。

父を含む盛岡藩士は勇ましく向かっていきましたが、北上する薩長さっちょう軍の猛攻に敗れ、落ち延びてきた味方の姿は無惨そのもの。元号が明治に代わっても戦は続き、盛岡を目指す官軍が住み慣れた村を堂々と踏み抜いていきました。幸い父は生き残ったものの、貞行は和井内家が〝賊軍ぞくぐん〟という汚名を着せられる屈辱くつじょくを味わいます。

「武士の世の中は終わった。もう私は武士のせがれではない。何か新しいことをしなければならない」

貞行は誓いました。逆賊とおとしめられた体験が、不屈の反骨はんこつ精神となって魂に刻まれたのです。

鹿角市先人顕彰館館長

田中忠美

たなか・ただよし

昭和31年秋田県生まれ。54年大学卒業後、主に鹿角市内の小中学校で37年にわたって教諭、教頭、校長などを務め、その中で積極的に鹿角市縁の偉人・先人の紹介にも取り組む。平成29年退職、令和2年より現職。