2019年12月号
特集
精進する
  • 報徳博物館学芸員飯森富夫

『二宮翁夜話』の訓えに学ぶ

江戸末期、疲弊した600の村々を復興した二宮尊徳。その言行を弟子の福住正兄が書き記した書物が『二宮翁夜話』である。この本を紐解くと、農民の心を一つに纏め、農村復興のために精進を続ける尊徳の姿がありありと伝わってくる。長年、尊徳を研究する報徳博物館学芸員・飯森富夫氏に解説いただいた。

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尊徳の息づかいが伝わってくる

報徳博物館(神奈川県小田原市)の学芸員になって32年。小田原にも博物館にも縁がなかった私が、前任者の突然の退職により学芸員となり、今日に至っていることを思うと、二宮尊徳との不思議な縁を感じます。もっとも、それまで鎌倉、南北朝時代を中心に歴史を学んでいた私にとって尊徳は決して馴染なじみ深い人物というわけではありませんでした。むしろ、その足跡や思想を学ぶ中で初めて知る事柄が数多くあったのです。

新たな発見が重なる度に「尊徳はすごい人物だ」という思いが深まり、次第にその人物に魅せられていきました。特に心を打たれたのは、尊徳が村おこしに当たって村人の気持ちを前向きにさせる力でした。自分の意見に無理に従わせるのではなく、いわゆる「報徳仕法」によって村人の意識を一つにまとめ、村々の立て直しを次々に成し遂げていく姿に本当のリーダーシップのあり方を教えられた気がしました。そこには村人一人ひとりの徳を引き出し、個性を輝かせようとした尊徳の人間観があったことも確かでしょう。

ここで紹介する『二宮翁夜話にのみやおうやわ』は、尊徳が折に触れて語った言葉を弟子の福住正兄ふくずみまさえ(1824~1892)が書き留めたものですが、それを読むと、尊徳がいかに村人の心をつかみ、意識を変え、村興しを進めていったのか。そのことが尊徳の語り口調によってありありと伝わってきます。

福住正兄は片岡村、現在の神奈川県平塚市の名主の5男坊として生まれました。幼名は大沢政吉といって、初めは医師を志していましたが、大沢家自体が尊徳から復興の指導を受けていたこともあり、父親から「医師は一人を治すことしかできないが、国を直す尊徳という人物がいる。その元で学んでみないか」とさとされ、医師への道を断念し尊徳に弟子入りするのです。

尊徳が江戸や栃木にいた6年ほどの間、正兄はほとんどの時間、尊徳のそばにいて村興しを手伝いつつ、書類の清書をしたり身の回りの世話をしたりしていました。その合間に、尊徳の言葉や行動をメモし、尊徳の死後、まとめ直したのが『二宮翁夜話』です。正兄が明治になってこの本を出版すると次第に広がりを見せ、昭和初期に岩波書店によって文庫化された後は、その本の存在が全国的に知られるようになりました。

報徳博物館学芸員

飯森富夫

いいもり・とみお

昭和33年東京都生まれ。中央大学大学院を経て62年報徳博物館学芸員となり、今日に至る。