2022年8月号
特集
覚悟を決める
対談
  • 車椅子インフルエンサー(左)中嶋涼子
  • 会社員、歌手(右)小澤綾子

バリアフリーな
社会を目指して

全身の筋肉が徐々に失われていく難病を患った小澤綾子さん。原因不明の脊髄炎で下半身が動かなくなった中嶋涼子さん。共に車椅子が必要な身となっても前進し続ける二人の活動が、見る者の心を動かし、様々な場で渦を巻き起こしている。その笑顔の奥に秘められた思い、乗り越えてきた苦悩、そして二人が目指すバリアフリーな社会についてお話しいただいた。

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「ちがい」を楽しもう!

——小澤さんと中嶋さんは、共に車椅子で生活する身でありながら、歌や講演、ユーチューブなど、様々な活動を精力的になさっていますね。

小澤 私たちのような車椅子や難病の人のことをもっと知ってもらいたい、弱い立場と思われがちな私たちも本当はいろんな可能性を持っていることを社会に伝えたいと思って、会社勤務のかたわらコンサートや講演活動を続けてきました。2017年には中嶋涼子さん、それからきょうは来ていませんけど梅津絵里さんと3人でビヨンド・ガールズというユニットも結成して、イベント出演などを通じて「『ちがい』を楽しもう!」というメッセージをお伝えしてきたんです。

中嶋 私はもともと会社で映画編集の仕事をしていました。裏方の人間で人前に出ることが苦手だったんですけど、小澤さんから「車椅子でも格好いいと思われるようなユニットを一緒にやらない?」と誘われて、いろんな場で活動するようになったんです。そうしたら見てくださった方が笑顔になったり、「自分も何かやってみようと思いました」という声をいただいたりして、あぁ私にも人に何かよいきっかけを与えることができるんだ、もっとこの活動に力を注ぎたいと考えて会社を辞めました。
いまはユーチューブで「中嶋涼子の車椅子ですがなにか?!」というチャンネルを立ち上げたり、映画やテレビに出演して、障碍者しょうがいしゃの思いを発信する車椅子インフルエンサーとして活動しています。

——お二人の出会いは。

小澤 2017年に、障碍者向けのフリーペーパーを発行する団体が主宰する女子会に参加したのがきっかけでした。

中嶋 もう一人のメンバーの梅津さんと3人が選ばれて雑誌の表紙を飾ることになって、その後で同じテーブルになったんだよね。

小澤 私は筋ジストロフィーという進行性の難病をわずらっているんですけど、その頃の私はまだ杖を突いて歩いていて、症状が進んでもできるだけ車椅子には乗りたくないと思っていました。けれども初めて会った中嶋さんは、とてもファッショナブルで話も面白くて、車椅子でもこんなに自分らしく生きている人もいるんだと感動しました。その時初めて、私も車椅子に乗っていいかなと思えたんです。
私はその前から歌や講演を通じて、バリアフリーな社会の実現を訴えていたけど、一番偏見があったのは自分自身だったことに気づかせてくれたのが、涼子ちゃんだったんだよ。

中嶋 綾子にそう言ってもらえると、とても嬉しい(笑)。

私は9歳の時に原因不明のせきずいえんで下半身が動かなくなって、小澤さんに出会った当時は車椅子で会社に勤めていました。職場の障碍者は私一人で、周りに言えないことも多くて悩んでいたんです。例えば、車椅子で入れるトイレがなくて困ることも多くて、何で私一人がこんなみじめな思いをしなきゃいけないのとか。
けれども小澤さんは、進行性の難病を抱えているのに私と同じ外資系の会社でバリバリ働いている上に、結婚もして、歌や講演でも頑張っている。何、この人って。私は会社で働くだけで辛い、辛いって嘆いていたけど、それじゃダメだ。自分にももっと何かできるんじゃないかって可能性を開いてくれたのが小澤さんでした。

小澤 いまはそれぞれ個別に活動しながら、時々イベントで一緒になるんです。先日は、自分で企画したコンサートで障碍や難病のある仲間と一緒に歌を歌って、そこに中嶋さんにも参加してもらいました。他にも、地元の子供向けの動画で車椅子の人との接し方についてお話しさせていただいたり、2025年の大阪万博に向けて結成されたバンドに参加したり、いろんな機会をいただいて本当にありがたく思っています。

中嶋 お仕事が続いているのは、とても幸せなことだよね。

会社員、歌手

小澤綾子

おざわ・あやこ

昭和57年千葉県生まれ。20歳の時に難病・筋ジストロフィーと診断される。平成18年明治大学経営学部卒業後、日本IBM入社。働きながら、音楽活動と講演を通して「いま」を生きる大切さを全国に伝えている。2025関西万博応援ソングを歌うバンドのメンバーに参加中、東京コレクションモデル、ドリームプランプレゼンテーション世界大会感動大賞受賞。著書に詩集絵本『10年前の君へ 筋ジストロフィーと生きる』(百年書房)がある。

ゴールではなかったパラリンピック

小澤 中でも特に印象に残っているのは、何と言っても中嶋さんと一緒に東京パラリンピックの閉会式に出場できたことです。あの舞台から見た景色は、一生忘れられないと思っています。

——パラリンピックの閉会式には、どんな思いで参加されましたか。

小澤 世界中から大勢の人が日本にやってくることで、世の中にはこんなにも多様な人がいるんだと日本人の心の目が開かれることを期待していました。私たちの活動の一つのゴールとしてこれ以上の舞台はないと考えていましたから、出場が決まった時には本当に嬉しかったですね。

中嶋 私は最初、パラリンピックのことをそんなに意識していませんでした。もちろんそれが日本で行われることは素晴らしいことだけど、パラリンピックが終わるのと一緒に障碍者への関心も薄れてしまったら嫌だなという気持ちもありました。
だから自分自身の表現力や発信力をもっと磨きたいと考えて、ビヨンド・ガールズの活動をしばらくお休みしてユーチューブの配信に専念していたんです。そうした中で閉会式のオファーをいただいて、あんな夢みたいな舞台でまた小澤さんと一緒にパフォーマンスできて、私も本当に嬉しかった。

小澤 コロナの影響で一時はパラリンピックの開催自体が危ぶまれていましたけど、閉会式の総合サポートをなさっている知り合いの方から「この日程は空いてる?」ってメッセージをいただいた時には、「何年も前から空けてあります!」って即答しました(笑)。
ただ、当時は開催に賛成の方ばかりではなかったので、世間の反応がすごく気懸かりでした。せっかく多様な人々が共生するインクルーシブな社会をつくりたいと思っているのに、出場することで逆に分断を生んでしまわないかなと。

中嶋 不安もすごくあったよね。

小澤 でも出場が決まったからには精いっぱい練習して、最高のパフォーマンスをすることだけに集中しようと考えました。

中嶋 二人で車椅子ドラムを叩くことになって一緒に練習を始めたんですけど、最初はすごく格好悪かったんですよ。いかにも障碍者が頑張ってますって感じで。それで、鏡を見てどうすれば格好よく見えるか工夫しながら、朝も夜も練習しました。もう頭の中でずっと音楽が流れ続けるくらい。

小澤 その甲斐あって本番では、私たちが心の底から楽しんでいる姿を見ていただけたと思っています。

中嶋 車椅子だからこそ、世界中の人に自分たちの姿が格好よく見えたんじゃないかなと思っています。私は車椅子に乗り始めて25年になるんですけど、車椅子でよかった、人と違っていいんだと心の底から思えたのはその時が初めてでした。
それまでのすべての出会いがつながってあの晴れ舞台に立てたことを実感して、感謝の気持ちでいっぱいでした。以前働いていた職場の先輩からも「本当に夢を叶えたんだね」ってメッセージをもらって本当に嬉しかったですね。

小澤 閉会式は世界中で放映されたけど、お客さんの前で直接パフォーマンスを披露できなかったのは残念だったね。それに、あれだけたくさんの障碍者の方々が表舞台で輝けるような状況を、パラリンピックの期間だけで終わらせてはいけないという思いも募ってきて、パラリンピックはゴールじゃなかったな、自分たちの活動はまだまだこれからだなと覚悟を新たにしたんです。

中嶋 そうそう。ここで終わりじゃない、自分たちの姿をもっともっといろんな人に伝えていかなければと私も思いました。

車椅子インフルエンサー

中嶋涼子

なかじま・りょうこ

昭和61年東京都生まれ。小学3年の冬、突然歩けなくなり、横断性脊髄炎と診断される。高校卒業後に渡米、平成23年南カリフォルニア大学映画学部卒業。帰国後、通訳、翻訳の仕事を経て、28年FOXネットワークス入社。29年退職後はユーチューブチャンネル「中嶋涼子の車椅子ですがなにか?!」の運営などを通じ、障碍者の思いを発信する車椅子インフルエンサーとして活動中。