2026年7月号
特集
続けてこそ道
一人称
  • 諸橋轍次記念館前館長嘉代隆一

小径こみちによらず
大道を歩め

漢学者・諸橋轍次が貫いた信念

戦争や失明など様々な困難を乗り越え、実に33年の歳月をかけて『大漢和辞典』全13巻を完成させた漢学者・諸橋轍次博士。漢字の母国・中国でも類のない前人未到の大事業といってよい。諸橋轍次記念館館長として、その顕彰に尽力してきた前館長・嘉代隆一氏に、諸橋博士が『大漢和辞典』の編纂にかけた執念の歩みを語っていただいた。
【写真 Ⓒ諸橋轍次記念館】

    この記事は約11分でお読みいただけます

    諸橋轍次

    もろはし・てつじ

    明治16(1883)年~昭和57(1982)年。新潟県出身。東京高等師範学校卒業。東京文理科大、國學院大、大東文化学院の教授、都留文科大学長などを歴任。また静嘉堂文庫長、宮内省御用掛を務めた。昭和のはじめから『大漢和辞典』の編纂にあたり昭和35年全13巻を完成させた。昭和40年文化勲章。

    諸橋轍次記念館前館長

    嘉代隆一

    かしろ・りゅういち

    昭和28年新潟県生まれ。三条市役所勤務を経て平成28年から8年間諸橋轍次記念館館長・顧問として館の運営や博士を顕彰する「諸橋轍次記念 漢字文化理解力検定」や「諸橋轍次博士記念漢詩大会」などに取り組む。

    幼き日に見た好好爺の面影

    いまではその名を知る人が少なくなりましたが、戦中、戦後の激動期を含めた33年の歳月をかけて『大漢和辞典』13巻を完成させた漢学者がいます。漢字数約5万字、数約52万語。漢字の母国・中国でも類を見ない大辞典のへんさんに文字通り命を懸け、学界にも大きな影響を与えたのが、我が郷土・新潟県三条市出身のもろはしてつ博士(1883~1982)です。

    私は縁あって2016年から8年間、諸橋轍次記念館の館長・顧問を務め、記念館の運営やイベント、講演などを通して微力ながらその偉業の顕彰に努めてきました。一方で諸橋博士の足跡を日々学ぶにつれて、誰もがくじけてしまうような大変な苦難を乗り越え、ぜんじんとうの足跡を残した博士の執念に驚くことも度々でした。

    1953年、三条市に生まれ、この地で育った私にとって諸橋博士は、子供の頃からどこか身近な親しみのある存在でした。私が卒業した荒沢小学校は博士が1896年に卒業された四ッ沢村尋常小学校の後身で、博士はいわば大先輩に当たります。四ッ沢村尋常小学校の初代校長は、博士の父君諸橋やすへい氏で、氏はその後、学校制度の改編や隣村との併合など幾多の変遷を経ながらも、この地を離れることなく教育者として40年余り、この地の教育に尽くされ、地域の人たちから慕われました。

    私が小学2年生の時だと思いますが、諸橋博士作詞による校歌が完成し、記念講演でしょうか好々爺こうこうやの博士をお見かけした覚えがありますが、定かではございません。

    諸橋博士は終生、自然豊かな故郷をこよなく愛されました。100歳で亡くなる数年前まで夏には東京から帰省し、しばらくの間、生家で過ごしながら旧知の人々と親交を重ねられたとお聞きしています。

    私が三条市役所を定年退職して記念館館長を務めることになった時、何よりも強く意識したのは、博士の偉業をお伝えすると共に、博士の故郷への思いに応えることでした。そのための様々なイベントを考え、取り組んできました。今年(2026年)で9回目を迎える「諸橋轍次記念漢字文化理解力検定」もその一つです。

    この検定は、つじてつ京都大学教授(現漢字能力検定協会漢字文化研究所所長)を委員長に知見豊かな先生方からご検討いただき策定したものです。漢字文化に関する総合的な知識や理解力を問い、単に漢字の読み書きや熟語の意味だけでなく、漢字の成り立ちや中国、日本両国の人名、地名、さらに諸橋博士の生涯、業績など設問は多岐に及びます。

    検定は諸橋轍次記念館を会場に開催し、全国からお越しいただいてきました。現在は、諸橋記念館と東京会場の2か所で実施され、当日は両方をオンラインで結んで記念講演会や検定の解説講座なども行われます。派手さこそありませんが、漢字文化を後世に伝えると共に、諸橋博士の偉業を広く知っていただくきっかけをつくり、いささかでも先生のご恩に報えたことを嬉しく思っています。