2016年8月号
特集
思いを伝承する
対談
  • 参議院議員山谷えり子
  • 米国カリフォルニア州弁護士ケント・ギルバート

いま、後世に
語り継ぐべきこと

日本はいま、新時代の激流に晒されている。その中で、私たちが守るべきものは何か。また、私たちにそれを守り抜く覚悟はあるだろうか。教育を通じての国づくりに尽力する山谷えり子氏と、長らく日本に在住し、アメリカ人の目で日本の姿をつぶさに見てきたケント・ギルバート氏に、日本の現状を踏まえて未来に伝承していきたい各々の思いを語り合っていただいた。

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日本人としての自覚を促す視点

山谷 ケントさんとは、若い頃から一緒に講演をさせていただいて、とてもお世話になってまいりましたけれども、最近は日本の国柄とか、憲法についてのお考えを通じて、私たちが日本人としての誇りを持つことの大切さを訴えていただいて、とてもありがたく思っています。
息子がケントさんのブログをずっと愛読させていただいていて、「ケントさんが、こんないいことを書いているよ」ってよく教えてくれるんですよ。

ギルバート あぁ、ご子息が私のブログを。

山谷 春に靖國神社の神楽の席でご一緒させていただいた時も、「都心にこんなに静かな祈りの場所がある日本は素晴らしい」とおっしゃって、日本人としてとても誇らしく思いました。

ギルバート 本殿の正面には、明治天皇が靖國神社を創建なさった時に詠まれたという歌が掲げてありましたね。

山谷 ええ。「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」という御製です。

ギルバート 明治7年にご本人がお書きになったものが、そのまま掲げてあるわけでしょう。あれには感動しました。

山谷 ケントさんはそういうふうに、私たちが当たり前だと思っていることが、外国の方から見るといかに素晴らしく感じるかということを、折に触れて客観的な視点で言葉にしてくださるから、改めて日本人であることの自覚を促されるんです。

ギルバート 私は最初、宣教師として来日しました。派遣先は教会が決めるので、日本に派遣が決まった時には「それ、どこ?」というくらいの認識しかなかったんですけれどもね(笑)。

山谷 ケントさんが初めて日本にいらっしゃったのは……。

ギルバート 初来日は1971年の12月です。19歳の時でした。2か月ほど日本語の集中講義を受けてきただけなので、言葉はそんなに分かりませんでしたし、宗教の仕事が目的でしたから、いまのように政治について話すことは禁じられていました。
とにかく人と接するのが仕事で、いろんな方々と触れ合う中で、日本人の心というのは何となく感じましたね。皆さんとても優しいんですよ。私が活動した九州では、どこのお宅も「ごめんください」ってドアを開けて中に入っても全然大丈夫でした(笑)。

山谷 あぁ、当時はね(笑)。

ギルバート 一時期山口県にもいたんですけど、柳井の沖の大島を訪ねた時のこともとても印象に残っています。あそこの段々畑のミカンが色づき始めた頃、仲間と2人で人を訪ねて行ったんですけど、途中の民家で道順を尋ねたら、「ちょうどお昼の支度をしたところだから、一緒にどうぞ」って、見ず知らずの私たちを招き入れてくださったんです。いやぁ、この国はいいなと感動しましたね。
あの時は2年で帰国しましたけれども、大学院を出た後で東京の法律事務所に就職が決まって、1980年に引っ越してきたわけです。

参議院議員

山谷えり子

やまたに・えりこ

昭和25年東京都生まれ。48年聖心女子大学卒業後、新聞記者、テレビキャスター、コラムニストとして活躍。平成12年衆議院議員初当選。16年参議院議員(全国比例区)当選。第一次安倍政権では総理大臣補佐官(教育再生担当)として60年ぶりの教育基本法改正、43年ぶりの学力調査実施に尽力。第二次安倍改造内閣では、国家公安委員会委員長、拉致問題担当大臣、海洋政策・領土問題担当大臣、国土強靱化担当大臣、内閣府特命担当大臣(防災)として入閣。著書に『日本よ、永遠なれ』(扶桑社新書)などがある。

実感する日本人の変化

山谷 日本に来られて随分経ちますけれども、初めて来日された頃と比べて印象は変わりましたか。

ギルバート あれから高い建物が山ほど立って古い街並みがどんどんなくなっていきましたけど、物理的に豊かになっていくにつれて、ちょっと冷たい感じがするようになったのは残念ですね。住宅事情もよくなって、勝手に中に入って「ごめんください」って言うわけにもいかなくなりましたし(笑)。

山谷 マンション住まいが増えましたから、玄関まで行くのも大変ですよね(笑)。

ギルバート かつては無条件で溶け合っていた人の心が少し冷めたと言いますか、警戒心が出てきているようですね。皆さん自分のことで忙しくなって、そういうことに心を向ける余裕がなくなっているようにも思います。
ですから9年前にモンゴルに行った時には、まるで昔の日本に戻ったようでとても懐かしく感じたんです。まだ国がそれほど豊かではなくて、テレビも大した番組をやっていないし、携帯電話もそんなに普及していないし、結局他にすることがないから、人間対人間の関わり方がとても密なんです。いまの日本は他人と接しなくても十分生活が成り立ちますから、随分変わってしまったなぁという感じがしますね。

山谷 それでも日本には、まだ自然の美しい風景がたくさん残っていますし、思いやりとか人柄のよさもちゃんと残っています。けれども、核家族や一人暮らしが増えて、さらに携帯やスマホの普及で生活が大きく変わったことで、ケントさんがおっしゃるように人と直接関わらなくても生きていけるような社会になってしまいました。他人の心に踏み込むことへの遠慮みたいなものがどんどん大きくなってきているのは確かですね。やはり、もう一度日本人らしい和らぎとのどけさを取り戻さなければ、個人も国も底力を十分発揮できないと思います。
それで、第一次安倍内閣で教育再生担当の総理補佐官を務めた時には、教育基本法を改正して、教育の目標に豊かな情操と道徳心を培うことや、伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛する態度を養うことなど、たくさんの目標を盛り込みました。
けれどもそうしたことは単に知識ではなくて、体験をとおして感動しながら養っていくことが大切です。先ほどのケントさんの大島でのご体験のような感動がないと、そうした心はしっかり育まれないし、志も育ちません。子供たちにはできるだけ生の体験と、人と直に触れ合う場所をつくっていく必要があります。

ギルバート そうですね。

山谷 このままでは大変なことになるという強い危機感があるものですから、いまは教育再生実行本部の自民党の本部長代行を務めて、教育再生のレールをちゃんと走っているか、検証しながら新しい提言もしているんです。基本はシンプルといえばシンプルで、知徳体のバランスと、それを育むために必要な体験を積んでいける環境を整えることだと思うんです。

米国カリフォルニア州弁護士

Kent Sidney Gilbert

ケント・ギルバート

1952年アメリカアイダホ州生まれ。1971年ブリガムヤング大学在学中に、モルモン教の宣教師として初来日。1980年ブリガムヤング大学大学院を卒業。米国の弁護士資格を取得して、国際法律事務所に就職し、法律コンサルタントとして来日。1983年テレビ番組「世界まるごとHOWマッチ」にレギュラー出演し、人気タレントとなる。以後、テレビ出演、複数企業の経営や講演活動を行うほか、公式ブログやメールマガジンなどで、在日米国人法律家の視点から日本の政治、文化、歴史問題等について活発な言論活動を展開。著書に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)などがある。