2017年11月号
特集
一剣を持して起つ
一人称
  • 拓殖大学 学事顧問渡辺利夫

独立自尊どくりつじそん
すすめ

福澤諭吉が日本人にのこしたもの

幕末・明治期を代表する思想家・福沢諭吉。「文明開化論者」「啓蒙思想家」「欧化論者」として広く知られる福澤だが、実は旧士族社会の士風を重んじる「ナショナリズムの精神」を非常に強く持った人であった。50年以上にわたり福澤の著作に親しんできた拓殖大学学事顧問の渡辺利夫氏に、福澤の知られざる実像に迫っていただいた。

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福澤諭吉の知られざる実像

福澤諭吉と聞けば、多くの方が激動の幕末・明治期に、「西洋文明を取り入れ新生日本の建設に精出すべし」と説いた、文明開化論者、欧化主義者としてのイメージを思い浮かべることでしょう。

少し詳しい方なら、福澤は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と語った天賦人権説の人であり、「政府は国民の名代にて、国民の思う所に従い事を為すものなり」と主張し、社会契約説の立場をとった啓蒙思想家だと理解しているかと思われます。福澤諭吉の名を世に知らしめた明治初期の一大ベストセラーである『学問のすゝめ』には、確かにそのような内容が書かれています。

それからもう1つ、世に広く知られる福澤像を決定づけているのが、福澤が晩年に著した『福翁自伝』に記された「門閥制度は親の敵で御座る」という強烈なメッセージです。同書には、無類の学問好きであった父・百助が、「中津藩では、漢籍において彼に敵う人物はいない」といわれるレベルにまで達しながら、下級士族であったために、学問を通じての身分上昇は叶わず、失意の生涯を送ったことなどが書かれています。

そして福澤は、「門閥制度は親の敵で御座る」という旧社会への憤懣を抑えられず、親の敵を討つために西洋の学問の修練に努めるより他なしと決意。長崎で蘭学を学び、次いで大坂に出て緒方洪庵のもとで才能を見出され、さらに東京に出て英学に転じて、知識人としての道を歩み始めるのです。

しかし、『学問のすゝめ』や『福翁自伝』のストーリーから浮かび上がってくるイメージは、福澤の実像を正確に捉えているのでしょうか。福澤は生涯にわたって膨大な文献を書き遺しています。私は学生時代から現在に至るまで、折に触れて福澤の著作に親しんできたのですが、文明開化論者、欧化主義者、啓蒙思想家といった福澤の世間のイメージは、彼の思想のほんの一面にすぎないことを、読むたびに悟らされてきました。

第2次大戦前の昭和14年に生まれ、青春時代に安保闘争、全共闘運動に囲まれてきた私は、戦後の日本が左翼リベラリズムの強い特殊な時代であることを身を以て知っています。そして世の福澤像も、実はその左翼リベラリズムの時代において「造作」された非常に偏った福澤像なのです。自らの思想的淵源を福澤諭吉という権威に求めたいという、左翼知識人の願望が、偏りを持った福澤像を生み出したのだと私は考えます。

福澤の思想は、戦後につくられたイメージより遥かに多面的、多層的であり、遥かに懐の深い思想です。本欄では、福澤が遺した文章に触れながら、戦後につくられた「既製品」ではない真実の福澤像に迫ってみたいと思います。

拓殖大学 学事顧問

渡辺利夫

わたなべ・としお

昭和14年山梨県生まれ。慶應義塾大学卒業後、同大学院博士課程修了。経済学博士。筑波大学教授、東京工業大学教授、拓殖大学長、第18代総長などを経て、現職。外務省国際協力有識者会議議長、アジア政経学会理事長なども歴任。JICA国際協力功労賞、外務大臣表彰、第27回正論大賞など受賞多数。著書に『アジアを救った近代日本史講義』(PHP新書)『士魂―福澤諭吉の真実』(海竜社)などがある。