2023年2月号
特集
積善せきぜんいえ余慶よけいあり
一人称
  • 代々木上原禅堂師家窪田慈雲

仏道の原点
因果応報の真理に学ぶ

仏道に身を投じて70余年。卒寿を迎えてなお禅の指導に勤しみ、人々に御仏の尊い教えを説き続ける窪田慈雲老師。「積善の家に余慶あり」の金言にも通じる仏教の神髄、因果論についてご自身の修行体験を交えて紐解いていただき、困難な時代、憂い多き人生を力強く生き抜く心得を伝授していただいた。

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人は死んでどこへ行くのか

17歳で仏門を叩き、在家で参禅を続けて早73年。よわいを重ね、そつ寿じゅを迎えたいまも、私は東京の代々木上原に構えた禅堂に一般の方々をお迎えし、法話や坐禅指導を続けております。

ぞくしんからはとうに離れ、我が身はすべてぶっにお任せする心境に至っておりますが、お釈迦様の尊い教えを一人でも多くの方にお伝えしたいという思いはいささかもおとろえることはありません。難解な印象を持たれるお釈迦様の教えも、その原点を辿たどれば実に簡単明瞭であり、実践すれば運命を大きく好転させる力があることを知っていただきたいのです。

かような次第で、この度は仏陀ぶっだの原点についてお話をいたしますが、その前に、私が仏道へ導かれたいきさつについて触れておきたいと思います。

私は1932年、3人兄弟の長男として生まれました。ところが12歳の時、私のすぐ下の8歳の弟が、腎臓をわずらいあの世へ旅立ちました。さらに16歳の時、今度は8歳になった末弟が友人と近くの多摩川へ遊びに行き、おぼれ死んでしまったのです。警察から連絡を受けて母と一緒に弟の遺体を引き取りに行き、夜道を無言で連れ帰った時のことは、70年以上経ったいまでも決して忘れることはできません。

我が家には、なぜかくも不幸な出来事が次々と押し寄せてくるのか。弟たちが8歳という若さでこの世を終わる不合理を、なぜ神仏は許すのか。彼らは死んでどこへ行ったのか……。

弟の葬儀でお世話になったそうとうしゅうの和尚様に、そうしたやり切れない思いを訴え、ぜひとも坐禅をしてみたいと相談したところ、和尚様は「それは結構なことです。ただ、坐禅をするには正しい師匠につかねばなりません」と、在家信者の指導に尽力されていた三宝教団の安谷白雲やすたにはくうん老師をご紹介くださったのです。

「人はなぜ死ぬのですか? 死んだらどこへ行くのですか?」

安谷老師の坐禅会に参加した私は、老師に向かって心に抱いていたありったけの疑問をぶつけました。既に還暦を越えていた老師は、孫ほども年の離れた若造の言葉にじっと耳を傾けてくださり、「それは坐禅をしてけんしょうさとりの第一段階)すれば解決します」とおっしゃいました。私はその言葉にいちの希望を見出し、禅の修行を始めたのでした。

ところが、壁に向かってじっと坐っていると、こんなことをしていったい何になるのかとバカバカしくなってくる。坐禅など二度と来るものかと苦々しい気持ちで家路につくものの、翌月の坐禅会が近づけば、老師のおっしゃる見性もしないで早々に禅を見限るのは間違いではないかという反省心が起こり、再び禅堂へ足を運ぶのでした。もしあの時参禅をやめていたら、今日の私はなかったことでしょう。

そのうちせっしんという泊まり込みの修行の会にも参加するようになり、そこで安谷老師から無字のこうあんという、悟りの道標となる課題を与えられました。

有名な公案の一つに、中国唐代の名僧・じょうしゅう和尚が、ある弟子から「犬にもぶっしょうはありますか?」と問われ、「無ーっ!」と答えたという話があります。その無を探してこいと言われるのですが、いくら考えても答えは見出せず、随分難儀をしたものです。それでも6、7年かけて約600ある公案を何とか終了しましたが、人は死んでどこへ行くのかという疑問は解消しません。

老師より、「まだ本当に徹底しないからだろうね」と指摘されてただちに再参を申し入れ、36歳で二度目の公案の調べを終了しました。途中から独参するようになった山田耕雲老師からも多大な啓発をいただき、次第に自分の中で生死についての疑問も解消していきました。そして1972年、40歳の時に仏道修行終了の証であるさんさいが行われ、安谷老師より「うんけん」のけんごうを賜ったのです。

代々木上原禅堂師家

窪田慈雲

くぼた・じうん

昭和7年東京生まれ。17歳の時に安谷白雲老師と初相見し、44年受戒。47年に大事了畢の証明、慈雲軒の軒号を授かる。白雲老師遷化後は山田耕雲老師に師事し、嗣法を経て平成元年に三宝教団第三世管長就任。16年退任後は、代々木上原禅道場や経営者向けの坐禅会で指導。著書に『道元禅師の心』『心に甦る「趙州録」』(共に春秋社)などがある。