2021年12月号
特集
死中活あり
  • 臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺住職古川周賢

修養の人・武田信玄に学ぶ

乱世を生き抜く指導者の条件

〝甲斐の虎〟〝戦国最強〟と恐れられた戦国武将・武田信玄。2021年生誕500年の節目を迎え、その生き方やリーダーとしてのあり方に改めて注目が集まっている。武田信玄の菩提寺である禅の名刹・恵林寺の住職を務める古川周賢老大師に、武田信玄の知られざる一面を紐解きながら、混迷を深める現代に求められるリーダーの条件を語っていただいた(写真:山梨県甲府市内にある武田信玄像)。

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戦国最強の武将は第一級の知識人?

私が住職を務めさせていただいている恵林寺えりんじ(山梨県甲府市)は、〝甲斐かいの虎〟〝戦国最強〟と恐れられた戦国武将・武田信玄しんげん公の菩提寺ぼだいじです。特に、本年2021年は信玄公生誕500年、2022年は450回忌という記念の年に当たることもあり、当寺でも「武田信玄公生誕500年・450回忌記念事業」を立ち上げ、外拝観路の改修や観光ガイドブックの制作など、様々な取り組みを進めています。

その中で、私自身も改めて信玄公について学びを深める機会を得たのですが、意外にも史実としては分かっていないことが多いのです。そもそも歴史上の人物というのは、その時代の権力者、あるいは世の風潮によって様々なイメージを与えられるものです。信玄公においても、太平の世が続いた江戸時代には儒教的な忠義を重んじる信玄像が、明治や昭和の戦争の時代には人々を鼓舞こぶする戦闘的な信玄像が強調され、流布るふされました。実際、武田信玄と聞けば、ほとんどの方が荒々しい武人をイメージするのではないでしょうか。

しかし私なりに資料と向き合う中で、この生誕500年の節目にぜひもっと多くの方々、特に人の上に立つリーダーの方々に知っていただきたいと思うのが、多彩な教養と深い見識を備えた第一級の知識人としての信玄公の姿です。

信玄公は京都から公家くげを招いて詩歌しいか会・連歌れんが会を頻繁ひんぱんに開催しており、自身も優れた和歌や漢詩を数多く残しました。特に和歌は達人級の腕前で、その作品が『為和集ためかずしゅう』や『甲信紀行の歌』に収載しゅうさいされています。漢詩においても、京都大徳寺の宗佐首座しゅそにより、『武田信玄詩藁』として編纂へんさんされているほどの実力です。ここから信玄公が並々ならぬ熱意で詩歌の研鑽けんさんに取り組んだことが分かります。

また、禅に向き合う姿勢にもすさまじいものがありました。信玄公は最初の禅の師匠である岐秀ぎしゅう元伯げんぱくに就き、禅の語録『碧巌録へきがんろく』全10巻のうち、7巻まで学び終えています。『碧巌録』は禅の中でも最も内容が深く、難解だとされている語録です。それを7巻まで終えたというのは並大抵のことでありません。しかも7巻で終わっているのは、「禅の修行にこれ以上打ち込めば、出家か遁世とんせいの遠因になってしまう」と、師の岐秀に止められたからだといいます。

同時代の高僧の書簡にも、「太守訟庭無事官暇の時にえば、吾が宗門の碩徳英衲を招いて、道話に日を消すを常となす」と記されており、信玄公が日常から本格的に禅の修行に向き合っていたことがうかがえます。

心頭しんとう滅却めっきゃくすれば、火も自ずから涼し」の言葉で知られる臨済宗妙心寺派の名僧・快川かいせん国師こくしも、そんな信玄公に尋常ではないほどれ込んでいました。例えば、信玄公の没後、快川国師はその7回忌の法話で、「餘音猶在耳……信玄公が桜を詠んだ歌がいまなお耳に残っている」と、在りし日の交流を回想しつつ絶賛しています。快川国師は信玄公の招きで恵林寺の住職を務められ、信玄公とは深い信頼関係で結ばれていたのです。

和歌でも漢詩でも禅でも、単なるたしなみでは終わらない、何事でも人の2倍、3倍と、突き抜けるほどの学問修養を重ねる。そこに信玄公の傑出した点があります。

臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺住職

古川周賢

ふるかわ・しゅうけん

昭和42年岐阜県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を修了、博士号取得。平成9年京都紫野大徳寺専門道場に掛搭。23年山梨県甲州市妙心寺派乾徳山恵林寺副住職、26年より現職。