2022年1月号
特集
人生、一誠に帰す
対談
  • 志ネットワーク「青年塾」代表(左)上甲 晃
  • 日本航空元会長補佐専務執行役員(右)大田嘉仁

松下幸之助と稲盛和夫の
生き方に学ぶ

昭和の経営の神様・松下幸之助。平成の経営の神様・稲盛和夫。それぞれ1代でパナソニック、京セラやKDDIを日本を代表するグローバル企業に育て上げた両氏の共通項は多い。松下電器に入社後、松下政経塾に携わった上甲 晃氏と、京セラで長年稲盛氏の秘書を務めた大田嘉仁氏に、新旧二人の偉大な経営者の誠を尽くし切った人生哲学、経営哲学を紐解いていただいた。

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偉大な経営者に学んだ二人

上甲 大田さん、はじめまして。きょうは長年稲盛いなもり和夫さんの秘書を務められた大田さんと対談ができるというので、楽しみにまいりました。この10月に、『稲盛和夫一日一言』という名言集が発売になったそうですね。

大田 ええ。これまでの稲盛さんの様々な著作や発言から366個の金言を集めた1冊で、稲盛さんの仕事と人生の成功哲学が凝縮されています。もともと10年以上前に構想が練られていたものですが、稲盛さんは名言集の発売に慎重で、ようやくこの度出版という運びになりました。

上甲 どうして稲盛さんは躊躇ちゅうちょされたのですか?

大田 366個もの言葉を選んでもらったのはありがたいけれど、断片的な言葉だけでは誤解が生まれるリスクが高いのでは、と危惧きぐされていました。しかし、10年前と比べて著作も多くあり、稲盛さんのフィロソフィ(哲学)も世の中に広まってきているので、いまこのタイミングで実を結ぶことができたのだと思います。

上甲 並々ならぬ思いが込められた1冊なのですね。

大田 そうなんです。今回、上甲先生とは初めて対談させていただきますので、若輩者の私から自己紹介させていただきます。
私は鹿児島市薬師やくし町の生まれで、後に、稲盛さんのご実家と徒歩10分圏内だったことが分かりました。京セラに入社したのは鹿児島に工場があったという理由の他に、高校生の頃から海外志向が強かったので、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた京セラなら、海外に行けるチャンスもあるだろうと考えたからなんです。幸い20代から海外出張の機会に恵まれ、1988年から2年間は、海外留学もさせていただきました。
しかし、本当の意味で稲盛さんと出逢ったのは、留学から帰ってきた翌年に、稲盛さんの特命秘書になった時だったと思います。以来、30年近くそばで仕え、経営破綻はたんに陥ったJALの再建時も、稲盛さんのサポート役を務めさせていただきました。

上甲 事前に大田さんの著書『JALの奇跡』を読ませていただいて、私たちには非常に共通点が多くあるなと感じていました。
まず、同じく電機メーカーに入社しながらまったく違う分野の仕事を突然命じられた点です。私は1965年に松下電器に入社し、広報や電子レンジ販売などを担当した後、1981年、40歳の時に松下政経塾への出向を命じられ、教育事業に携わるようになりました。それから実は私も学生時代、海外に行きたいと思っていたのでその点も同じですね。松下幸之助と稲盛和夫という二人の人物についても、手掛けてきた事業や考え方の根底が非常によく似ています。

大田 ええ、稲盛さんは松下さんにすごく学ばれていますから。

上甲 特に、お二人とも哲学を大切にされていました。稲盛さんはフィロソフィという表現をされましたが、松下幸之助は戦後まで「哲学」という言葉を知らなかったんです。若い社員に、「君、皆が哲学、哲学といっているけども、あれはなんや?」と。本人は哲学を語っていながら、哲学という言葉を知らなかったのも、松下幸之助らしいエピソードだと思います。

志ネットワーク「青年塾」代表

上甲 晃

じょうこう・あきら

昭和16年大阪府生まれ。40年京都大学卒業と同時に、松下電器産業(現・パナソニック)入社。広報、電子レンジ販売などを担当し、56年松下政経塾に出向。理事・塾頭、常務理事・副塾長を歴任。平成8年松下電器産業を退職、志ネットワーク社を設立。翌年、青年塾を創設。著書に『志のみ持参』『松下幸之助に学んだ人生で大事なこと』など多数。最新刊に『人生の合い言葉』(いずれも致知出版社)がある。

本格的な出逢いに際し掛けられたひと言

上甲 先ほど、秘書になってから本格的に稲盛さんと出逢ったとおっしゃっていましたが、それ以前に稲盛さんから特段影響を受けたことなどはなかったですか?

大田 当然、入社の際の面接や稲盛さんを囲むコンパ、仕事の場など要所要所でお目にかかる機会はありましたが、平社員にとって稲盛さんは雲の上の人でした。1990年に先ほどお話しした留学先の米国ジョージ・ワシントン大学でMBAを取得した時、たまたま首席で卒業できたんです。それを機に、帰国後、稲盛さんからお声掛けいただいて特命秘書に命じられ、そこからじかに教えをいただくようになりました。

上甲 それはおいくつの時ですか。

大田 36歳です。稲盛さんとは22歳離れているので、稲盛さんは60歳手前。その頃、稲盛さんが政府の行政改革審議会の部会長に就任され、そのサポートをしてほしいと依頼されました。経営企画室との兼務でしたが、毎週1回東京での会議に随行するなど、長時間、行動を共にさせていただきました。その際、最初に稲盛さんからこう言われています。
「おまえはこれから俺の代わりにいろんな人に会ってもらうことになる。だから、俺と一心同体でなければいけない。おまえが横柄おうへいな態度を取れば俺が横柄だと思われるし、おまえが傲慢ごうまんだったら俺が傲慢だと思われる。だから、考え方も立ち居振る舞いも、一心同体になるように努めてほしい」
この言葉はかなりのプレッシャーでしたね。最初の頃は本当に緊張の連続でした。
それまで、稲盛さんという方は何でも即断即決で超人的な仕事をしていると思い込んでいました。しかし、近くで仕事をさせていただいて早々にそのイメージがくつがえりました。一つひとつの資料を丁寧に読み込みますし、人の意見をよく聞いて、本当によく考えて判断される。常に細心の注意を払って仕事をされるのです。その姿勢に非常に驚いたことを覚えています。

上甲 大田さんが京セラに入社された頃、社員数は何名でしたか?

大田 滋賀と鹿児島に工場がありましたから、2,000人くらいです。

上甲 いまの大田さんのお話を伺いながら、大田さんは本当に〝稲盛さんの薫陶を受けた方だ〟と思いました。私は残念ながら、松下幸之助から薫陶くんとうを受けたという実感があまりないんです。というのも、年齢が50歳近く違いますし、私が入社した頃、松下電器は既に10万人くらい社員がいましたから。どちらかというと、「謦咳けいがいに接した」という表現のほうが適していると思います。
もし薫陶を受けていたら、定年退職して早々に引退していたかもしれません。でも謦咳ですから、「後はおまえが引き継いでやれ」と松下幸之助から日本の未来を託されているような気がして、傘寿さんじゅを迎えたいまも第一線で松下幸之助が求めたものを求めるつもりで、日本の政治をいささかでもよくする活動に力を注いでいるんです。

大田 そうですか。上甲先生のご著書『松下幸之助に学んだ人生で大事なこと』を読ませていただきましたが、いまなお本気で松下幸之助さんの志を継ごうとされていることに感銘を受けました。

上甲 私にとって、松下幸之助との最初の出逢いの思い出は松下政経塾への出向を命じられた時です。既によわい85を超えていた松下幸之助が日本の将来を本気でうれえて、未来をつくる政治家を育てるという志のもとに松下政経塾を創設し、私も参画することになりました。
しかし私は政治に関して全くの素人ですから、政治家を育てるという特別な仕事は自分には務まらないと、1か月近く固辞し続けました。最後は松下幸之助に手紙を書いて直訴じきそしたんですが、その時の答えが強烈でした。「君、素人か。それはええな」と。もう完全にノックアウトですよ。返す言葉もなく、「頑張ります」というより仕方ありませんでした。そしてその後、こう付け加えられました。
「君な、これだけは絶対に負けたらあかんというものがある。それは熱心さや。経験がなくても、知識がなくても、熱心さにおいて誰にも負けなかったら、道は必ずひらける」
この「素人のほうがええんや」「熱心さがあれば道はひらける」という言葉は、松下政経塾に勤務した14年間を支えた言葉であり、今日に至るまで僕を突き動かす原動力にもなっています。

日本航空元会長補佐専務執行役員

大田嘉仁

おおた・よしひと

昭和29年鹿児島県生まれ。53年立命館大学卒業後、京セラ入社。平成2年米国ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA取得)。秘書室長、取締役執行役員常務などを経て、22年日本航空会長補佐専務執行役員に就任(25年退任)。27年京セラコミュニケーションシステム代表取締役会長に就任(29年顧問、30年退任)。現職は、MTG取締役会長、学校法人立命館評議員、鴻池運輸取締役、新日本科学顧問、日本産業推進機構特別顧問など。著書に『JALの奇跡』(致知出版社)がある。