2024年1月号
特集
人生の大事
一人称2
  • 長久保赤水顕彰会会長佐川春久
千古一業に生きる

長久保赤水
70歳の家訓

三百有余年もの昔、常陸国に生まれ、本格的な日本地図を製作。江戸庶民の経済活動や幕末の志士に道標を与えたのが儒学者・長久保赤水である。学問分野を跨ぐ偉業は国内外で尊敬を集めるも、明治維新を境に歴史に埋もれてきた。自筆の地図に「千古一業」(千年万年、永遠に残る一大事業)の印を捺した赤水。40年の歳月をこの顕彰に捧げる佐川春久氏の語りから、稀有なる先人が命を燃やした大事に迫る。

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独創の人長久保赤水

江戸時代中期、かののうただたかより半世紀前に本格的な日本地図を完成させ、庶民の生活を向上させた人物がいます。水戸藩(茨城県)の儒学者・ながせきすいです。

「えっ、そんな人がいるの?」と思う方がいても無理はありません。事実、歴史教科書に登場するのは伊能ばかりだったからです。

2人の地図の違いを挙げるなら、まず伊能図は当人たちが各地を歩いて実測した〝測量図〟であり、幕府に提出された後も長く秘され、明治初年まで大衆の目に触れることはありませんでした。一方の赤水図は、多数の人や資料から情報を収集し、学問的に考証に考証を重ねてできた〝編集図〟です。

『改正日本輿地路程全図』(寛政3年/第2版)特徴は、実測ではなく先達が遺した数多の文献、初版に所蔵された地図資料、道行く人や学友たちのネットワークによって製作された〝編集図〟である点。本図の前年には『蝦夷之国』を完成させた〈文中資料提供:高萩市教育委員会〉

赤水以前の地図は、戦争や税の徴収に用いられた、言わば支配者の道具でした。赤水は幕府の許可を得て自らの地図を出版、それも24分の1に折りたためる形を採り、たちまち江戸庶民や志士たちに広まりました。吉田松陰が旅先から兄に宛てた書簡には、「これが無くては不自由だから買い求めました」という旨が記されています。松陰は赤水を先生と仰いでおり、その没後には常陸ひたちのくにを訪れ、墓参をしてから東北へ旅立っています。萩の松下村塾をはじめ全国の藩校で教材とされていた事実もかんがみるに、赤水図は明治維新のエネルギーを醸成したと言えるでしょう。

時は流れて戦後、進駐してきたGHQは、島根沖の竹島を領土から外せと政府に命じます。しかし、赤水図には竹島がはっきり描かれていました。外務省はこれを提出し、竹島は日本の領土だと主張。結果認められ、サンフランシスコ講和会議で49か国の署名・調印を受けます。赤水図が日本領土の確定資料となったわけです。

これらは赤水の仕事の価値を示すほんの一端です。ではなぜ、それが埋もれてしまったのか。

1つは、61歳で水戸藩のこう(藩主に学問を講義し、まつりごとへの助言も行う)に取り立てられた際、郷土を離れて江戸に移ったため、活躍が外に伝わりにくかったこと。もう一つは、水戸学の思想を継ぐ水戸徳川家の側近だったために、明治新政府が顕彰するわけにはいかなかったという事情でした。

長久保赤水顕彰会会長

佐川春久

さがわ・はるひさ

昭和24年東京都築地生まれ。47年22歳の時、茨城県高萩市に居を移し、市役所に奉職。広報広聴係での市報制作等を通して長久保赤水の事績を知る。平成24年長久保赤水顕彰会会長(三代目)となり、県内外で講演、新聞寄稿を多数行う。監修を務めた映画『その先を往け! 日本地図の先駆者長久保赤水』がYouTubeにて公開中。