2016年10月号
特集
人生の要訣
対談
  • 高野山真言宗前管長松長有慶
  • 東洋大学学長竹村牧男

弘法大師・空海
の生き方

弘法大師として日本人に親しまれる空海。若い頃から厳しい行と学問に励み、唐ではインド伝来の密教の法を嗣ぎ、日本で真言密教を確立した。若き日に抱いた衆生救済の志を貫いたその62年間の歩み、そしてその教えの要諦を、高野山真言宗管長を務められた松長有慶氏と、仏教研究の第一人者である東洋大学学長・竹村牧男氏に語り合っていただいた。

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弘法大師に導かれて

竹村 松長先生、お久しぶりです。先生とは地球環境問題をテーマとする会合などお会いする機会も多いのですが、いつも撥溂とされている姿には驚いています。

松長 しかし、もう90歳に近いですから、体のほうはなかなかしんどいですよ。

竹村 先生は総本山金剛峯寺の座主・高野山真言宗管長や全日本仏教会会長などを歴任されましたが、座主を退かれたのは確か……。

松長 2年前です。いまは自坊・補陀洛院の住職をしながら講演活動などを続けております。

竹村 きょうのテーマは弘法大師・空海ですね。私はどちらかというとこれまで禅や唯識・華厳などを勉強してきましたので、弘法大師のことはそれほど深く勉強しているわけではありません。きょうは弘法大師の教えを学び、実践してこられた松長先生のお話を拝聴するつもりでまいりました。

松長 いやいや、古代から今日までの仏教全体を俯瞰し、その流れの中から弘法大師という人物を捉えられる竹村先生の視点にこそ気づかされることがたくさんあります。私こそ勉強させていただければ、と。
ところで、竹村先生はどういうきっかけで弘法大師に関心を抱かれたのですか。

竹村 大学時代、禅のサークルに入って坐禅に励んでいた頃だったでしょうか。弘法大師の研究で知られた宮坂宥勝先生の『人間の種々相』という本が出ました。これは大師の著作『秘蔵宝鑰』の解説書です。私はこれを読んで、弘法大師がいかに広大・甚深な思想体系の持ち主であるかに驚きました。当時、大師が目にすることができたあらゆる思想を網羅して、しかも、それを体系化して人間の心を深い部分まで探っている。
私も若くてまだ何も知らない頃でしたが、弘法大師という人物にとても心惹かれたことをいまでもよく覚えています。

松長 私と弘法大師との出会いは、竹村先生のように素晴らしいものではないんですね。父も真言宗の寺の住職をしておりました。60歳を過ぎて厳しい行に入り、戦争中は断食して28日間の護摩行をしましたが、その無理がたたってか、終戦の11日後に亡くなりました。
戦後になりますと、高野山にも多くの信者さんがお見えになるようになり、病気の平癒や商売繁盛などいろいろな願いをかけられる方々も増えました。しかし、若かった私はこのような高野山の雰囲気にどうしても馴染めませんでした。高野山を出て旧制高校に行きたいと思いましたが、父が亡くなって家計も厳しく、都会に出してもらえるような状態ではない。それで母親の助言どおりに高野山大学に進んだわけです。
もし、あの時都会に出ていたら、闇市をうろついて、飢え死にしていたかもしれません。

竹村 そうしますと、高野山に残られたのも奇しきご縁ですね。

松長 ただ、大学に進みましても弘法大師信仰にはどうしても親しみが持てず、避けよう避けようとばかりしていました。真言密教よりもサンスクリット語やインド、チベットの密教を、もっと広い視野で学ぼうと考え、卒業後は当時仏教学の第一人者が多くいらっしゃった東北大学大学院に進みました。
ところが、研究室でいろいろな宗教、宗派の人と接していると、「高野山大学を出たのだから弘法大師の専門家だろう」という目で見られるんです。大師から逃げてばかりいた私がですよ(笑)。そのうちに知らないでは済まされなくなって、やむなく勉強を始めた、という次第です。
これもご縁なのでしょうか、博士課程を終えて高野山大学の教員になると、サンスクリット語やチベット密教の専門の先生は既におられて、私は弘法大師を割り当てられることになりました(笑)。
ですから、私は決して主体性を持って弘法大師について学ぼうとしたわけでなく、あちこちに頭をぶつけながら、少しずつ大師に近づいていったんです。

高野山真言宗前管長

松長有慶

まつなが・ゆうけい

昭和4年年和歌山県生まれ。高野山大学密教学科卒業。東北大学大学院文学研究科インド学仏教史学専攻博士課程修了。高野山大学教授、学長、密教文化研究所長、高野山金剛峯寺第四一二世座主、高野山真言宗管長、全日本仏教会会長などを歴任。主な著書に『祈り』『空海 般若心経の秘密を読み解く』(ともに春秋社)『密教』『高野山』(ともに岩波新書)など多数。

戦後、物質主義の流れの中で

松長 ところで、私が高野山大学で教鞭を執るようになったのは昭和30年代ですが、当時は日本的なものを捨て去って早く欧米に追いつけ、追い越せという時代でした。ですから真言密教は「時代遅れ」「朝廷や貴族にへつらってばかりで、近代思想からはほど遠い」などと揶揄されて、見向きもされませんでしたね。

竹村 戦後の密教の扱いはそんなにひどいものでしたか。

松長 はい。何かの目的に向かって一目散という時代は、余計なものをどんどん切り捨てて、人よりも早く、しかも要領よく目的に辿り着こうとする風潮に流れがちです。弘法大師のように宗教的、学問的に複合的な要素を多くを抱えているような人は、どうしても時代遅れと考えられてしまうんです。
ただ、私が東北大学でお世話になった羽田野伯猷先生は大乗仏教の文献を数々読まれた上で、「松長君、密教は大乗仏教の中で非常に大きなウエイトを占めているんだ」と励ましてくださいました。私もそのひと言で自信を取り戻すことができたように思います。

竹村 しかし、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹先生などは密教を高く評価されていました。哲学者の梅原猛先生もそうです。

松長 湯川先生は、漢学を身につけた物理学者だけあって視点が違いました。「私が尊敬するのはレオナルド・ダビンチと弘法大師である」と。確かにダビンチも弘法大師も単純路線ではなく、非常に多角的な側面を持っているわけです。
日本で最初にノーベル賞を取られた方が弘法大師を高く評価されて、そこから少しずつ社会の風向きも変わってきました。昭和59年、弘法大師の御入定1,150年御遠忌を迎えると、弘法大師に対する関心は一気に高まっていきました。

東洋大学学長

竹村牧男

たけむら・まきお

昭和23年東京都生まれ。東京大学卒業後、文化庁専門職員、三重大学助教授、筑波大学教授、東洋大学教授を経て、平成21年より東洋大学学長。専攻は仏教学・宗教哲学。著書に『日本仏教思想のあゆみ』『入門 哲学としての仏教』(ともに講談社)『〈宗教〉の核心』(春秋社)など多数。