2023年5月号
特集
不惜身命 但惜身命
インタビュー③
  • 日本協会17代会長平田冨峰

武士道精神の伝承に、
我が命を燃焼す

剣豪・宮本武蔵の祖父・平田将監から17代目に当たる平田冨峰氏。10歳から始めた剣道は最高位の八段を極め、また、警視庁捜査一課の刑事として数々の凶悪犯罪の解決に身命を賭してきた。80歳を越えるいまなお現役で剣を交える平田氏に、体験から掴んだ人生・武士道精神の極意、そしていまを生きる日本人へ伝えたいメッセージをお話しいただいた。

この記事は約12分でお読みいただけます

「おまえには宮本武蔵と同じ血が流れているんだ」

——平田さんは、剣の達人・宮本さしの祖父・平田しょうげんから数えて17代目に当たるそうですね。

平田将監は当時の竹山城の殿様の家老であり、武術指南役を務めていました。私の実家があるみまさか国宮本村(現・岡山県美作市宮本)には将監のお墓が残っていまして、その墓碑にも「武専院仁義一如居士」と記されています。
それで、将監には武蔵の父である(無二斎)と武助の2人の子がいたのですが、私の家は武助の系統に当たるんですね。ちなみに、無二斎は時の将軍・足利義昭から「日下無双兵法術者」という号を賜るほどの武芸者でした。
その後、平田家は基本的には農家として田畑を耕し、いざという時に刀を持って戦う地域のリーダーとして代々続いてきました。

——幼少期からご先祖様のことを聞かされて育ったのでしょうか。

父には幼い頃から「おまえには武蔵と同じ血が流れているんだ。このことだけは忘れず肝に銘じておけ」と耳にタコができるほど聞かされました。
農業をやっていましたので、生活は決して豊かではありませんでしたけれども、父はその言葉の通り本当にきんげんじっちょくな人でした。
ですから、私は子供の頃、地元でも有名な悪ガキだったのですが、人のものを盗んだり、自分より弱い者をいじめたり、卑怯ひきょうなことだけは絶対にしなかったんです。

——武蔵の血が流れているというきょうが、生きる軸になったと。お母様はどのような方でしたか。

母は情け深い人で、相談事に乗ったり、人の世話が好きな地域のまとめ役でしたけれども、「ものを盗むようなれんなことをしたら、わしはおまえを殺して死ぬつもりだ」とよく言っていました。ただ、父も母も、私がけんや飲酒をして休学・停学処分になってもしかることはありませんでした。逆にそれがこたえたのですが……。
ところが、一度だけ両親に泣いて叱られたことがあります。高校3年の時に、離れの自分の部屋でタバコを吸っていたところ、父と母が飛び込んできて、「情けない!」と、涙ながらにじゅんじゅんさとされたんです。これには相当堪えましてね、以後、「家では」絶対に吸わないと決めました(笑)。ともかくも、いまの自分はその父母あってこそだとしみじみ思います。

——その後、長じて警察官の道に進まれていますが、それは何か特別な志があったのでしょうか。

1つには叔父が大阪府警に勤め、警察署長をやっていましてね、羽振りがよかったんです。ですから、私も警察官になればいい生活ができるかもしれないと。
もう1つは、自分の得意な剣道が生かせると思ったからです。剣道は武士道精神、大和魂の象徴だということで、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により禁止されました。それが昭和27年に解禁になったのですが、私の地元は武蔵生誕の地ということもあり、剣道に理解がありましたから、私もすぐに習い始めました。小学校4年生、10歳の時です。
先ほど言ったように、私は大変な悪ガキでしたけれども、剣道のけいにはに一所懸命取り組み、高校生で三段になりました。当時、高校生で三段を持っていたのは、おそらく県内でも3人くらいしかいなかったと思います。

——剣道に熱心に取り組まれたのには、やはり武蔵の血が流れているという意識もありましたか。

それはありましたよ。自分には宮本武蔵の血が流れているんだから、負けてたまるかっていう気持ちで打ち込んでいました。
それで警視庁警察官になったんです。昭和38年、20歳の時でした。

日本協会17代会長

平田冨峰

ひらた・ふほう

昭和17年岡山県生まれ。剣豪・宮本武蔵の祖父である平田将監から数えて17代。37年警視庁警察官として奉職。大塚警察署長、装備課長、鑑識課長、捜査一課長、立川警察署長、生活安全総務課長、刑事部参事官等を歴任。平成13年定年退職。三菱地所総務部CSR推進部顧問(現在は退職)。剣道教士八段。小野派一刀流、直心影流の修業にも取り組み、現在も現役で後進の指導に当たり、剣の道を通じて武士道精神を伝承している。令和元年「瑞宝小綬章」受章。