2024年6月号
特集
希望は失望に終わらず
一人称
  • 作家楡 周平

セイコー創業者
服部金太郎の生き方
に学ぶ

世界的時計メーカー・セイコー。その創業は明治期の1881年、創業者である服部金太郎が東京・京橋に開いた服部時計店に端を発する。金太郎はいかにして僅か一代でセイコーを世界に伍する会社へと飛躍させたのか。多くの災難を福に変えていった金太郎の歩みや信条を、『黄金の刻 小説服部金太郎』の著者である作家・楡周平氏にお聞きした。

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試練をチャンスに変えた服部金太郎

2021年に集英社から刊行した『黄金のとき 小説服部金太郎』は、最近、テレビ朝日でドラマ化されたこともあって多くの読者から感動の声が寄せられています。ただ、誤解を恐れずにいえば、この作品はどこまでも僕の創作です。

推理作家である僕にとっては実在の人物をモチーフに小説を書くのは初めての挑戦でした。「服部金太郎氏について書いてほしい」と出版社から名指しで依頼を受けた時、創作でいいというお話だったからお引き受けできたんです。

もちろん、執筆するに当たっては多くの資料に丹念に目を通しましたが、実際、どのような会話のやりとりがあったかなんて誰にも分からないわけだし、なぜ時計商をこころざしたかなど調べても何も資料が残っていない。それぞれのシーンで多分に僕の想像が入っているんですね。だから、セイコー創業者としての史実には基づいているけれども、生涯を忠実に反映した伝記というわけではないんです。

しかし、金太郎氏の足跡を知り、執筆を進めるうちに、彼のスケールの大きさに次第に圧倒されていく自分がいました。金太郎氏の人生は幼少の丁稚でっち奉公に始まり、独立後の店舗の火災、離婚、同業者とのあつれき、揚げ句には関東大震災で店舗や工場が焼失するという大変な試練に直面します。普通ならそこで立ち直れなくなってしまうはずですが、面白いことに金太郎氏はこれらの試練をすべてプラスに変えて、事業をさらに大きく発展させていくんです。

「思い通りにならないのは、何とももどかしく感ずるものだし、不幸な目に遭えば己の運を、神様に呪いたくもなるものだ。でもね、今があるのは、あの時の失敗や挫折があればこそ。あの時、思い通りに事が運んでいたならば、今の成功はなかった。後で振り返ってみると、そう思えることが多々あるものなんだよ。だから人生は面白いんだ」

これは『黄金の刻』の中で、奉公先である辻屋の主人・辻くめきちが、金太郎少年に語って聞かせる言葉です。これも僕が自分の経験に基づいて考えた言葉ですが、人生には確かにそういう一面があるように思います。「あの失敗や挫折があったのは、いま自分がこういう道に来るためだったんだ」と後々思える人の人生は、とても幸せなのではないでしょうか。僕が金太郎氏に思いをせる時、まず頭に浮かぶのはそのことです。

もう一つ、金太郎氏の生涯を通して思うのは、人生の成功をどこに求めるか、ということです。金太郎氏はまだ時計が一般的でなかった明治期、「誰もが正しい時間を知ることのできる世の中にしたい」という志を貫徹した人であり、富や権力など現世利益のみを求める生き方とはまるで違いました。

どれだけ立派な志を立てて生きたとしても、それが報われるとは限りません。世界的な画家・ゴッホにしたって、その名が知られるようになったのは彼の死後です。死後の評価もあると考えたら、人生、決して志をあきらめてはいけないんですね。そうやってポジティブに何かをやり続けてこそ厳しい現状を抜け出すことができる。遠大な志を抱き、それをぶれさせることなく歩み続けた金太郎氏はまさにその典型だと思うんです。

作家

楡 周平

にれ・しゅうへい

昭和32年岩手県生まれ。慶應義塾大学大学院修了。米企業在職中の平成8年に発表した国際謀略小説『Cの福音』がベストセラーになり、一躍脚光を浴びる。9年退社し、執筆活動に専念。朝倉恭介を主人公としたシリーズや、『無限連鎖』(文藝春秋)などサスペンス小説のほか、『再生巨流』(新潮社)など経済小説を手掛ける。近著に『ショートセール』(光文社)『ラストエンペラー』(KADOKAWA)。撮影/弦巻勝