2022年12月号
特集
追悼・稲盛和夫
対談
  • 京セラ元社長(右)伊藤謙介
  • KDDI元社長(左)小野寺 正

稲盛さんに学んだ
リーダーの条件

現代の名経営者と謳われた稲盛和夫氏。その生き方・考え方が経営者やビジネスパーソンに留まらず、多くの人々を惹きつけて止まないのはなぜか。稲盛氏と共にそれぞれ京セラ、第二電電(現・KDDI)を立ち上げ、燃え上がるような創業の熱気を分かち合ってきた伊藤謙介氏と小野寺正氏に、稲盛氏の思い出を語り合っていただき、この希有なる人物からいま改めて学ぶべきことを考えてみたい。

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残された者に課せられた継承の責任

小野寺 大先輩の伊藤さんとこうして対談をさせていただくのは、きょうが初めてですね。大恩ある稲盛さんについてお話しできるのは嬉しい限りですが、京セラの創業時から稲盛さんと一心同体でやってこられた伊藤さんとは、ご縁の深さにおいてあまりにも差が大き過ぎますから(笑)、きょうは私の知らない稲盛さんのエピソードについてもいろいろ伺いたいと思います。

伊藤 稲盛が亡くなって、もう1か月以上が経つんですね。いまはとにかく寂しい、残念。それ以外の言葉は思い当たりません。
8月半ばに病床を訪ねるまで、あいにくコロナで3年間くらい会っていなかったんです。その前に2、3人で京都のホテルへ鉄板焼きを食べに行った時に、「痩せたわ、伊藤君」と言っていましたが、実際にかなり痩せていましてね。食も細くなって、あんなに好きだった肉もあまりのどを通らない様子でした。
亡くなる何日か前にお嬢さんが、「皆さんに何か伝えておくことはありますか?」と聞かれると、「もう何にも言うことはない」と答えたそうです。「会社をもうちょっと何とかせい」とか言うならまだしも、何も言うことはないとは、これはかえって責任が重いなと。

小野寺 私は稲盛さんに、DDI(現・KDDI)をつくる1年前からご指導いただいてきました。2019年にエリザベス女王から名誉大英勲章KBEを受章されて、イギリス大使館で授章式が行われた時にお目にかかったのが最後でした。お元気なうちにもっといろいろお話を伺っておけばよかったと悔やまれます。

伊藤 いま強く思うのは、稲盛が仕事を通じて人間いかに生きるべきかを追求し、確立した人生哲学、経営哲学であるフィロソフィの継承です。
現役時代は、フィロソフィが希薄化した時に京セラの命運は尽きると社員に言い続けて、稲盛にも「いいことを言うじゃないか」とめられたんですけど、稲盛が亡くなったいま、稲盛から学んだ哲学を継承することの重要性を、一層強く実感しているんです。

京セラ元社長

伊藤謙介

いとう・けんすけ

昭和12年岡山県生まれ。高校卒業後、松風工業入社。働きながら大学で学ぶが中退。34年京都セラミック(現・京セラ)創業に参画。50年取締役。常務、専務、副社長を経て、平成元年社長に就任。11年会長。17年相談役。著書に『心に吹く風』『リーダーの魂』(共に文源庫)『挫けない力』(PHP研究所)、最新刊に『美を伴侶として生きる歓び』(文源庫)。

20代にして窺えたフィロソフィの萌芽

小野寺 伊藤さんは、学校を出られた時からずっと稲盛さんと一緒に働いてこられたのでしたね。

伊藤 ええ。学校を出た時は、取り立てて夢も計画もない、とりえのない青年でした。文学にかれていたので、その道に進むことも考えておったんですが、たまたま京都にいらっしゃった知人の紹介でしょうふう工業という会社に入り、そこの研究室で働いていた稲盛の部下になったわけです。
松風工業はがいという磁器製の絶縁体を製造していたんですが、業績は左前で、給料も月5,000円しかもらえませんでした。稲盛は新しい材料の開発を命じられていて、それが後に京セラの主力製品となったセラミック材料だったんです。
高品質なセラミック材料を開発するために、何十種類もの素材をわずかに分量を変えては混合を繰り返し、最適な比率を探っていくのですが、非常に根気のいる作業で、稲盛には厳しく指導を受けました。正確に計測するため、使った器具はその都度きれいに洗浄していましたが、冬は冷たい水で洗うのがとてもつらかったですね。しかし、その時稲盛から学んだものづくりの厳しさが、僕の原点になっているんです。

小野寺 当時の稲盛さんはどんな印象でしたか。

伊藤 5つ年上の稲盛は、僕にとっては兄のような存在でしたね。そりゃあ厳しかったですけど、優しさもありました。大して給料をもらっていないのに、仕事の後で僕たち部下をよく飲みに連れて行ってくれました。厳しいだけでは人はついてきませんが、稲盛は若い頃からとてもバランス感覚に優れていて、ものすごくシビアでありながらも、皆に夢を与え、やる気にさせる力にけた素晴らしいリーダーでした。

小野寺 リーダーとしてのてんの才のようなものがあったのですね。

伊藤 それから稲盛は、この実験にはこういう意味があるんだと、仕事の意義についてものすごく丁寧に説明してくれました。そればかりでなく、仕事とはこういうものだ。こういう考え方を持って臨むことが大事だという話もよく聞かせてくれました。大学を出て間もない若者とは思えないような立派な仕事観、人生観を既に持っていましたね。
開発した新しいセラミック材料を使った、テレビのブラウン管用絶縁部品は、松下電子工業から大量の注文をいただくようになり、業績不振の会社で唯一の黒字部門になりました。ところが、大規模なストライキが始まってしまいましてね。稲盛は自分たちが開発したセラミック部品で会社を救いたいと考えていたんですが、ストが長引けば注文に応えられなくなり、せっかく必死で築き上げた信用が水泡に帰してしまいます。
それで稲盛は僕たちに協力を求め、会社に寝泊まりしてセラミック部品をつくり続け、スト破りをして納品しに行ったんです。できた製品を、「ストを破って納めて来い」と言われるものですから、皆命懸けでしたよ。

小野寺 あぁ、スト破りをして製品を納められた。

伊藤 組合幹部が抗議に来て、大勢の組合員の前でつるし上げに遭ったこともありますが、稲盛は「この会社にせっかくともったあかりを消したくない」と一歩も引きませんでした。当時、まだ20代だった稲盛がそこまでやったのは驚くべきことです。お客様を大切にするとか、使命感を持って仕事をするといった後の京セラフィロソフィの土台は、もうその頃から固まっていたのではないかと思いますね。

KDDI元社長

小野寺 正

おのでら・ただし

昭和23年宮城県生まれ。東北大学工学部電気工学科卒業後、旧日本電信電話公社(現・NTT)に入社。59年、後のDDIの母体となる第二電電企画に転職。平成9年DDI副社長。13年KDDI代表取締役社長に就任。会長などを経て30年に相談役。京セラ取締役、大和証券グループ本社取締役などを歴任。