2021年3月号
特集
名作に心を洗う
我が心の名作②
  • 評論家木原武一

ヘンリー・ソロー
『森の生活』

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    名作が教えてくれたこと

    アメリカの作家・ソローに、
    「一人にとって真実であることは、千人にとっても一層真実である」
    という言葉があります。私がこれまで愛読してきた名作は、いずれもこの言葉が示唆しさするように、自信を持て、自分を信頼せよと私を鼓舞し、人生を支え続けてくれました。

    中学生の時に出合ったホイットマンの『草の葉』、30歳を過ぎて独立し、評論活動を始めた時に出合ったエマソンの『自己信頼』、さらにガンジーの『自伝』、デカルトの『方法序説』。これらに共通するゴーイング・マイウェイの精神、合理的な思考、そして毅然きぜんたる正義漢を通じて、私は世間の風潮に流されず、自分の信念を貫くことの大切さを学んだのです。

    中でも私が最も大きな影響を受けてきたのが、ソローの『森の生活』です。

    ヘンリー・デイヴィッド・ソローは、1817年にアメリカ北西部の都市・コンコードに生まれました。ハーバード大学を卒業後、教師となりますが、わずか2週間で辞めてしまいます。当時のアメリカの学校では、むちを使うなどの体罰が当たり前に行われていましたが、ソローは子供に暴力を振るうことを拒否して学校を去ったのです。

    それからは家業の鉛筆製造業を手伝うかたわら、様々な職業を転々とします。ハーバード大学同窓会からのアンケート調査の職業欄には、学校の教師、家庭教師、測量士、庭師、農夫、ペンキ屋、大工、石工、日雇い労働者、鉛筆製造業、紙やすり製造業、作家、時には三文詩人と、豊富な職業遍歴が赤裸々せきららつづられています。

    ソローはこのように、いまでいうところのフリーター生活を生涯続けながら文筆活動を行いましたが、生前に出版できた本は『森の生活』を含む僅か2冊。師匠格の哲学者・エマソンの助力でいくつもの出版社に掛け合うものの採用してもらえず、ようやく印刷を果たした本も大半が売れ残り、自身の手元に引き取りました。このことを自嘲じちょうして
    「いまや私の蔵書は千冊を数えるほどになったが、そのうちの七百冊ほどは私自身が書いたものである」
    つづっています。

    結局、ソローは生前にほとんど評価されることなく世を去りました。ところが、死後に出版された著作や日記を通じてその生き方や思想への共感が広がり、現在ではアメリカの偉大な作家の一人に数えられているのです。日本での人気も根強く、アメリカの学者も驚くほど多数の翻訳本が出版されています。

    評論家

    木原武一

    きはら・ぶいち

    昭和16年東京生まれ。東京大学文学部ドイツ文学科卒業。著書に『大人のための偉人伝』『続大人のための偉人伝』『天才の勉強術』(いずれも新潮選書)『あの偉人たちを育てた子供時代の習慣』(PHP研究所)などがある。