2018年7月号
特集
人間の花
対談
  • 銀座ろくさん亭主人(左)道場六三郎
  • スポーツキャスター(右)松岡修造

人間の花を咲かせる生き方

人間各自、その心の底には一個の天真を宿している——国民教育の師父・森 信三師の言である。人は皆、天からその人だけの真実を授かってこの世に生まれてくる、という。その天真を発揮して生きることこそ、人間の花を咲かせることに他ならない。片や日本料理、片やテニス、それぞれの道で花を咲かせてきた道場六三郎氏と松岡修造氏が語り合う、人間の花を咲かせる生き方とは。

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いまは亡き妻が料理の腕を上げてくれた

松岡 対談というのは僕が一番不得意としておりまして、話を聞くほうが得意なんです。

道場 いや、僕もそうです(笑)。そういえばこの間、ろくさん亭の食事券を買っていただいて、ありがとうございます。

松岡 何でご存じなんですか!?

道場 昨日うちの娘が教えてくれました(笑)。

松岡 正直、テレビ番組で道場さんを取材させていただいてから、何かちょっとお店に伺うのが恥ずかしいという思いもあって(笑)。

道場 あれは何年前ですかね?

松岡 4年前の夏ですね。その時に道場さんが奥様のことについて語られたんですよ。僕はそのお話を伺ってから、妻に対してだいぶ気持ちが変わりました。

道場 女房は病気で3年前に亡くなったんですけど、僕はね、女房のことで一番感動するのは、僕が玄関を開けて帰ってくるとベッドの上で僕を待っている。で、両手を広げて、「ああ、パパ」って言うんですよ。あの姿がいまだに脳裏に焼きついています。
女房にはたくさん迷惑をかけてきたけれども、亡くなるまでずっと付き添ってくれた。本当にありがたいなぁと思ってね。

松岡 奥様は病気になられてから、道場さんのつくる料理しか召し上がらなかったそうですね。

道場 ええ。口を大きく開けられないので、小粒のおにぎりとか野菜スープをつくったりしました。店でそういう料理を出すことはなかったですし、冷蔵庫にあるもので女房が食べられるものをつくっていくと、新しい発見があるんですね。ですから、家庭で料理をつくるようになってから、仕事の幅が広がって、腕が上がったような気がするんですよ。

銀座ろくさん亭主人

道場六三郎

みちば・ろくさぶろう

昭和6年石川県生まれ。25年単身上京し、銀座の日本料理店「くろかべ」で料理人としての第一歩を踏み出す。その後、神戸「六甲花壇」、金沢「白雲楼」でそれぞれ修業を重ね、34年「赤坂常盤家」でチーフとなる。46年銀座「ろくさん亭」を開店。平成5年より放送を開始したフジテレビ「料理の鉄人」では、初代「和の鉄人」として27勝3敗1引き分けの輝かしい成績を収める。12年銀座に「懐食みちば」を開店。17年厚生労働省より卓越技能賞「現代の名工」受賞。19年旭日小綬章受章。著書に『「一本立ちできる男」はここが違う』(新講社)など多数。

修羅場を潜り抜けてきた人間は強い

松岡 道場さんはお若い頃、命に関わるほどの修羅場を経験されていて、そこが僕にはないところで、一番魅力を感じるところなんです。

道場 いやいや、とんでもない。

松岡 喧嘩けんかに関しては、何があっても負けないとおっしゃっていましたよね。

道場 絶対勝つことしか考えない。若い頃はしょっちゅう喧嘩していましたけど、23歳になってからは1回も喧嘩したことはありません。金沢の白雲楼という旅館に勤めていた時、年は僕より上だけど後輩に当たる人がいたんです。僕があれしろ、これしろと言うもんだから、頭にきたんでしょう。昼休みに寝ていたら、枕をっ飛ばして「おい、ちょっと来い」と。それで包丁を渡されたんですよ。
まいったなと思いましたけど、「よし!」と覚悟を決めて、裏の路地でお互いに包丁を持って対峙たいじした時に、僕がグッと真剣に構えたら相手がへなへなになって逃げ出した。喧嘩は目でするものだってよく言われていましたけど、まさにそのとおりでね。監獄に入ったらどうしようとか相手の家族に迷惑がかかるとか、余計な心配や同情をしていたら喧嘩にならない。だから何も考えないで、目の前の相手を倒すことだけに集中する。
でも、もしそこで本当に刺していたらすべてを失っていたわけで、その日からどんなことがあっても喧嘩は一切しなくなりました。

松岡 あと、闇市によく通われていたとか。

道場 僕は昭和6年、石川県山中温泉で茶道具の漆器しっき店を営む両親のもと、6人きょうだいの末っ子に生まれました。14歳で敗戦を迎え、あの時分は米も魚も野菜も全部配給でしたから、家族の食料を得るために朝一番で汽車に乗り込んで金沢の闇市に出掛け、父親がつくったお椀や木皿を芋や魚に換えるのが僕の役割だったんです。
いつも汽車は超満員で、客車に乗れない時は運転席のところにへばりついてね。ただ、駅では警察官が取り締まっているので、駅に着く手前で汽車から飛び降りる。そうやって命懸けで買い出しをしていました。生きるために必死だったんですね。

松岡 僕らの時代は、本気で喧嘩するとか、生きるか死ぬかなんて経験はほとんどないわけですよ。だから、そういう修羅場をくぐり抜けてきた人はものすごく強いなと感じます。

スポーツキャスター

松岡修造

まつおか・しゅうぞう

昭和42年東京都生まれ。10歳から本格的にテニスを始め、慶應義塾高等学校2年生の時にテニスの名門校である福岡県の柳川高等学校に編入。その後、単身フロリダ州へ渡り、61年プロに転向。怪我に苦しみながらも、平成4年6月にはシングルス世界ランキング46位(自己最高)に。7年にはウィンブルドンで日本人男子として62年ぶりとなるベスト8に進出。10年現役を卒業。現在はジュニアの育成とテニス界の発展のために力を尽くす一方、スポーツキャスターなど、メディアでも幅広く活躍している。著書に『挫折を愛する』(角川書店)など多数。