2020年5月号
特集
先達に学ぶ
  • 高崎経済大学名誉教授和泉清司

江戸の礎を築いた
伊奈忠次に学ぶ

世界有数の大都市・東京。巨大な建造物が林立し、日々大勢の人が行き交うこの場所が、かつて水害の多発する低湿地帯であったことを意識する人は少ない。この厳しい状況下で町の基盤づくりに奮闘し、今日の1,000万都市の礎を築いたのが、江戸幕府代官頭の伊奈忠次である。災害の多発するいま、この優れた先達から学ぶものについて、江戸幕府の成立過程に詳しい和泉清司に伺った。

この記事は約13分でお読みいただけます

水害多発の低湿地だった1,000万都市東京

いまから400年前、徳川家康が拠点を構えた頃の江戸は、すぐ側まで遠浅の海が迫り、浜辺に点在する小さな漁師町や村で人が細々と暮らす辺鄙へんぴな地域でした。領国内には多数の沼があり、隅田川の河口付近は湿地帯。北部からは大小多数の河川が流れ込み、これらが度々氾濫はんらんし、頻繁ひんぱんに洪水を起こしていました。

家康のめいを受け、この厄介な場所で町づくりの実務を担い、今日の1,000万都市東京のいしずえを築いたのが、代官頭だいかんがしら伊奈いな忠次ただつぐでした。

天正18(1590)年、小田原の北条氏を攻め滅ぼして天下統一を果たした豊臣秀吉は、東海の5か国を治めていた徳川家康に、突如関東への国替えを命じます。豊臣政権の最有力の家臣であった家康を警戒してその力をぐと共に、まだ秀吉に服従し切っていない東方の有力大名を牽制けんせいする狙いがあったものと思われます。

しかし家康にしてみれば、これまで手塩にかけて育ててきた大切な領国を召し上げられ、別の場所でまた一から領国を築いていかなければなりません。しかも新たにあてがわれたのが、先述の通りの劣悪な環境ですから、さぞかし不本意だったことでしょう。それでも秀吉の命令は絶対であり、不満を爆発させる家臣たちをなだめすかし、にんの一字で関東への移封いほうを受け入れたのです。

その際にまず問題となったのが、新たな本拠地をどこにするかということでした。最も有力だったのは、北条氏によって巨大な城郭じょうかくと充実した都市機能が確立されていた小田原をそのまま拠点にすることでした。

しかし、家臣の多くが小田原を推す中で、あえて江戸を拠点にすべきことを進言したのが、伊奈忠次でした。

忠次は、小田原は関東の西端にあり、関東全体の支配には適さないことを指摘した上で、江戸は確かに城の側まで海が迫っているが、これを干拓すれば広い城下町を形成できること。さらに海が近い利点を生かして港を築き、航路を開拓して全国各地を海運で結べば、経済的にも発展することを進言したといわれています。

家康がこの忠次の意見を採用したことによって、今日の東京があるのです。

高崎経済大学名誉教授

和泉清司

いずみ・せいじ

昭和19年東京都生まれ。37年明治大学大学院博士課程単位修得、史学博士。高崎経済大学地域政策学部教授。平成22年退官、同大学名誉教授。著書に『伊奈忠次文書集成』(文献出版)『徳川幕府領の形成と展開』(同成社)『江戸幕府代官頭 伊奈備前守忠次』(埼玉新聞社)他多数。