2017年12月号
特集
一人称
  • 清泉女子大学教授山本 勉

運慶うんけい快慶かいけい
極めた世界

日本の美術史に燦然と輝く足跡を残した運慶と快慶。見る人の心を掴んで放さない精神性の高さと造形美はどのようにして生まれたのだろうか。長年仏像彫刻を研究してきた清泉女子大学教授・山本勉氏の話からは、一道を極めて遊ぶが如き無心の境地に至った2人の天才仏師の姿が伝わってくる。

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運慶の作品を発見する瞬間

私が仏像彫刻に興味を持ったのは、いま考えても全くの偶然としか言いようがありません。

少年の頃から漫画家になることを夢みていた私は、中学時代、赤塚不二夫、石ノ森章太郎のいるプロダクションに作品を持参し、直接アドバイスをいただいたくらい漫画に熱中していました。やがて漫画家になる自信は失ったものの、途中経過に考えていた美術への関心は残り、東京芸術大学芸術学科に進み美学や美術史を学ぶようになりました。

しかし、東京芸大といえば、美術や音楽の実技の才能を持った若者が全国から集まる学校です。絵や彫刻の制作、歌や演奏に励む実技の学生を見ているうちに、講義ばかり受けている自分を不甲斐なく感じ始め、酒を飲んでは疎外感、劣等感を紛らわす毎日でした。

2年生の時、芸術学科のカリキュラムで奈良、京都を2週間旅行することがありました。奈良の円成寺を訪れた時、私は一体の仏像に思わず目を奪われました。それまで意識して仏像を見ることもなければ、信仰心があるわけでもありません。しかし、人間の身体をここまで見事に美しく表現できることに私は驚愕し、圧倒されてしまったのです。それは運慶の20代の作品である大日如来像でした。私が運慶や仏教彫刻について深く知りたいと強く思ったのはこの時です。

そして、これも偶然に東京芸大には水野敬三郎という運慶研究の第一人者がいました。私は水野先生の下で仏像彫刻を専攻し、先輩とともに全国の寺院を訪れては仏像の調査、研究に明け暮れるようになりました。その頃から実技の学生に対して抱いていたコンプレックスが少しずつ薄らいでいったような気がします。

卒業論文のテーマには円成寺の大日如来像を選び、大学院ではいよいよ運慶に本腰を入れるつもりでいましたが、高名な運慶は最早研究され尽くされた感があり、運慶より少し後、鎌倉中・後期の仏師たちを主なるテーマとして取り組み始めました。

昭和54年、修士課程の最後の年のことです。愛知県岡崎市の滝山寺にある仏像が運慶作ではないかという情報を耳にした水野先生と私たち学生は、すぐさま足を運びました。それは源頼朝を追慕する僧の依頼で運慶が造った聖観音菩薩像と脇侍像でした。幸運にもこの時、新しい運慶の発見に立ち会うことができたのです。

鎌倉時代の運慶の作品がいまだに発見されることは、研究者の私には大きな希望でしたが、驚くべき出来事はそのあとです。東京国立博物館に勤務してまだ間もない頃、仏教彫刻を卒論で取り上げたという一人の女子大生が相談にやってきて、「私が住む栃木県足利市の光得寺にある大日如来像を一度調べてほしい」と言うのです。

寺を訪れた水野先生と私は、厨子に入った小さな仏像を厨子から出した瞬間、これは運慶の作であると直感しました。エックス線で仏像内部の納入品を調べたところ、体の中心部に配された五輪塔形の木柱や金属製蓮華のついた水晶珠などが運慶作品の像内納入品の展開の中で位置づけられるものでした。私はこの調査をもとに100ページを超える大論文を発表。光得寺大日如来像はほどなくして国の重要文化財に指定されました。

さらに、その調査から17年後、私が書いた『大日如来像』という本を読まれた方から、古美術商から買った大日如来像の調査を依頼されました。光得寺像と関係の深い像で、これもまた運慶の作品と推定できるものでした。これが平成20年に米国でオークションにかけられ社会的な話題を呼んだ、現・真如苑大日如来像です。

このように、全く偶然に出合った3体の大日如来像が私の研究者としての人生を決定づけたと言っても過言ではないでしょう。

清泉女子大学教授

山本 勉

やまもと・つとむ

昭和28年神奈川県生れ。東京芸術大学大学院博士後期課程中退。24年間にわたる東京国立博物館勤務を経て、平成17年より現職。著書に『運慶大全』『運慶にであう』(ともに小学館)など。