2021年6月号
特集
汝の足下を掘れ
そこに泉湧く
  • 評論家宮﨑正弘

この人を見よ!

いま、ニーチェが語りかけるもの

神は死んだ——哲学者ニーチェの刺激に満ちた言葉の数々は、いまなお多くの人々の心を惹きつけてやまない。彼が己の精神の極限まで追求し、人々に訴え続けてきたことは何だったのだろうか。難解なニーチェの思想のエッセンスと、いまの日本人に示唆するものを、評論家の宮﨑正弘氏に繙いていただいた。

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己の人生を力強く歩め

「神は死んだ」「永劫回帰えいごうかいき」「力への意思」「超人」--刺激に満ちた独特の言葉で知られる哲学者・ニーチェ。その思想は、没後100年以上が経ったいまもなお多くの人に親しまれ、人生の示唆しさを与え続けている。

私がニーチェの著作を初めて手にしたのは学生時代。当時の私にとっては数ある思想書の1つでしかなく、内容を十分咀嚼そしゃくできていなかった。浅はかにもその表面的な印象から、虚無的で悲観的な思想の持ち主と誤解して距離を置いていたのである。

ようやく本当の出会いを果たしたのは、50代になってからであった。ニーチェ研究の第一人者であるドイツ文学者・西尾幹二かんじ氏と仕事を共にしたことをきっかけに、再びニーチェを手に取り、注意深く読んでみたところ、彼は私が思い込んでいたような虚無的、悲観的なことはひと言も書いていないことに気づいて愕然がくぜんとした。むしろ、暗い世の中を明るく生き抜けと、読む者を鼓舞する内容であることを発見し、深い感動を覚えたのである。

もう1人、私をニーチェへ導いてくれたのが、若い頃に薫陶くんとうをいただいた作家の三島由紀夫である。

少年時代からニーチェを愛読していた三島の作品には、その影響が色濃くうかがえる。

例えば『うたげのあと』では、東京都知事選に出馬したものの、選挙戦の愚かしい熱狂の中で心の冷めている男が描かれている。その姿は、キリスト教本来の教義を都合よく解釈して人々に押しつけ、反発する者の命すら奪ってきた当時の教会の異様な熱狂ぶりを冷静に見極め、その欺瞞ぎまんを激しく批判したニーチェの思想に通じていることを感じるのである。

ニーチェの名前はニヒリズムの代名詞のようにとらえられているが、先述の通り、彼の思想は決して虚無的、悲観的、厭世えんせい的、退廃的なものではない。ニーチェの思想は、自分を縛る常識や権威に本来価値はないことを訴えかけるものであり、あえて名づけるなら「ニーチェ主義」とも呼称すべき独自の思想と言えよう。

元東大教授で、日本哲学会の会長も務めた渡邊二郎は次のように記している。

「ニーチェの生涯と思想を顧みるとき、彼の主張を根本的に動かしていたものが、『生きる勇気を与える』思想の伝達にあった」

「うじうじと後悔ばかりして自虐的に自分を責める内攻的人間の苦しみを、愚かといさめて、むしろ自分の行為を大胆に肯定して生きる強さの道を発見するように要求している」

己の人生を力強く歩めと背中を押してくれるニーチェは、朗らかに読む哲学、思想である。その思想を理解するには、陰鬱いんうつで暗い書斎から飛び出して、公園のベンチで、あるいはリゾートホテルのプールサイドで、明るい日の光を浴びながら読むのが相応ふさわしいのだ。

評論家

宮﨑正弘

みやざき・まさひろ

昭和21年石川県生まれ。早稲田大学英文科中退。学生時代に『日本学生新聞』編集長。月刊誌『浪漫』企劃室長。貿易会社経営後、『もうひとつの資源戦争』で論壇へ。著書は文藝、歴史、国際政治・経済の評論や、フィクションなど多岐にわたる。ニーチェに関する著書に『青空の下で読むニーチェ』(勉誠出版)がある。