2022年9月号
特集
実行するは我にあり
  • 倫理研究所理事長丸山敏秋

丸山敏雄と森 信三

二人の巨人が目指したもの

倫理運動の創設者である丸山敏雄氏と、哲学者・森 信三氏は同時代に生まれ、広島高等師範学校時代には西晋一郎という共通の師に学んだ。生涯、一度も接点がなかったお二人だが、その思想や歩みには共通点が多い。在野の教育者として生き、日常での実践哲学を世に広めたこともその一つである。丸山敏雄氏の令孫で、森氏とも交流があった倫理研究所理事長・丸山敏秋氏に、実践によって培われたお二人の哲学を語っていただく。

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忘れ難き森 信三先生の手紙

倫理運動の創始者・丸山敏雄(1892~1951)の孫として生まれ、同じくざいの教育者として生きられた哲学者・森信三先生(1896~1992)に関心を抱くようになったのは20代前半です。親しくしていた小倉の原田しげやすおうから「あなたのお様と森先生は広島高等師範学校の先輩後輩の間柄ではないでしょうか」と尋ねられたのです。原田翁は自由人として小倉では名の通った方でしたが、森先生に傾倒され、その方を通して先生のお名前を知ることになりました。

森先生の講話や言葉を『じんそうしょ』としてまとめられていた寺田いっせい氏のことを翁に教えられ、すぐに本を取り寄せました。何度も読み返しながら、森先生の人物の偉大さに驚かされました。先生に自己紹介の手紙をお出ししたところすぐにお返事が届き、そこには「丸山さんは、広島師範学校の学生寮の最上級生で、寮長のような立場であられた。皆さんから仰ぎ見られる先輩でした」と書かれていました。

祖父は自分が生まれる2年前の昭和26年に亡くなっていますので会ったことはありません。しかし、森先生より祖父の知られざる一面を教えていただき、その生気みなぎる青春期に思いをせたものでした。

森先生の教えに啓発され、『一陰一陽』と題する個人誌を出すようになったのは29歳の時。学生時代より親しんでいた中国思想だとか当時の流行思想を書き連ねた手書きの冊子で、1年半にわたって毎月出し続け、それを森先生にもお送りしました。すると、次のような感想を頂戴しました。

「さて、『一陰一陽』をじんだいな関心をもって拝読いたしましたが、それは私にとっても深い〈感動〉の連続でした。そして個人誌というには余りにも高級でしたが、しかし今後は一つくらいこうした物のある必要を痛感いたしました」

「また思想的にも東洋といったら仏教、とくに禅のみに偏している観があります。わが国の民衆には、儒教の影響がより以上に多く、その為にも私はあなたの個人誌が『一陰一陽』と名づけられたことに、絶大な賛意を表するのです」

身に余る言葉に感極まりました。その頃、森先生は脳血栓で倒れられた後で、お返事の最後には「の右手もて」と記されていました。先生と直接お会いすることはかないませんでしたが、先生が不自由な右手でこれだけの長文をしたためてくださったことに感動した私は、以来、先生に傾倒するようになったのです。

倫理研究所理事長

丸山敏秋

まるやま・としあき

昭和28年東京都生まれ。51年東京教育大学文学部哲学学科卒業。59年筑波大学大学院哲学思想研究科博士課程修了。文学博士。日本学術振興会奨励研究員茨城大学・筑波大学、目白大学非常勤講師など歴任。著書に『家庭のちから』『生きぬく力』(共に新世書房)『至心に生きる』(倫理研究所)など多数。