2018年9月号
特集
内発力
鼎談
  • 大石順教尼かなりや会代表(左)大石晶教(雅美)
  • 大石順教尼記念館館長(中央)萱野正己
  • 映画監督、へそ道主宰(右)入江富美子

大石順教尼の歩いた道

養父の凶刃に両腕を失うも、悲劇を見事に乗り越え、生涯を身障者の支援に捧げた大石順教尼。口に筆を執り描いた書画は多くの人に愛され、没後50年、生誕130年を迎えたいまなお、記念館への来館者は引きも切らないという。身障者の母と謳われた無手の尼僧を突き動かした内発力の源は何か。順教尼と縁の深い萱野正己氏、大石晶教さん、入江富美子さんに語り合っていただいた。

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大石順教尼はまだ生きている

入江 私は7年前に不思議なご縁に導かれて、身障者の母と謳われた大石順教尼じゅんきょうに先生とその最後のお弟子さんだった日本画家・南正文まさのりさんを描いた映画『天から見れば』を製作させていただきました。
昨年(2017年)は順教尼先生の没後50年、今年は生誕130年という大きな節目に当たるこの時に、先生に縁のお二人と改めてお話しさせていただく機会をいただいて、とても嬉しく思います。

大石 順教尼の孫として、こうして節目の年を迎えられたことは本当によかったと思っています。
「堀江六人り事件」で両腕を失った順教尼の生きていた時代から世の中も本当に変わって、いまでは身障者の方々のためのいろんな制度もできましたし、スポーツで活躍する身障者の方も随分出てきました。そういう様子を見ていると、順教尼が果たしてきた役目も一区切りついたのと違うかなと私は思うんです。お祖母ばあちゃんありがとう、これまでご苦労様でしたって言ってあげたいですね。

入江 身障者の方々を巡る環境がいま以上に厳しかった明治から昭和の時代に生きられた順教尼先生は、皆さんの幸せを心から願われていたのでしょうね。

大石 その思いはとても強かったと思います。そして、皆さんが自立して生きていけるようになることを一番大事に考えていました。
ですから、身障者に対する法案ができた時かな、祖母は京都市で務めていた福祉の委員を降りたんです。ただお金を出して助ければいいという制度では、身障者をダメにしてしまうって。私もその通りだと思うんです。

萱野 僕はね、順教尼はまだ生きているって感じが強いんですよ。雅美さんはお孫さんの立場から、順教尼の役目は一区切りついたとおっしゃったけど、僕にとっての順教尼は・大石のおばちゃん・で、全然見方が違うんですね。まだ生きていて、これからいろんなことをやるんじゃないかなって気がしている。
僕の祖父・正之助が順教尼を熱心に支援させていただいたご縁で、僕はいま順教尼の記念館で館長を務めていますけど、年間何千人もの方が来館されるんです。びっくりするようなご縁に導かれてね。そんな皆さんに毎日接しているから特にそう思うのかな、順教尼は生きとるんですよ。

大石 確かにそれはあるかも分からんな。

萱野 先般、高野山でもお話をさせていただいたけれども、弘法大師こうぼうだいしに毎日お食事を差し上げるのは、人々の心の中にまだ生きていらっしゃるからでしょう。順教尼もね、いろんな所で語られるうちはまだ生きているんやと。だから僕はあまり節目を意識していないんです。

大石順教尼記念館館長

萱野正己

かやの・まさみ

昭和10年和歌山県生まれ。上場企業の役員を歴任するなど、国内外の経営活動に従事する。引退後、晩年のミッションとして順教尼の遺徳顕彰を志す。萱野家は江戸中期高野山真蔵院の里坊(不動院)として建立され、明治時代までその役目を負った由緒ある建物である。祖父にあたる正之助が、明治の大量殺傷事件「堀江六人斬り」の被害者である大石よね(のちの順教)の出家得度に大変尽力した縁で、萱野家には多くの順教作品が残されている。それゆえ萱野家は「大石順教尼記念館」として一般公開されることとなり、現当主として同館館長を務めながら、旧萱野家保存会会長としても活動中。

僕にとっては〝大石のおばちゃん〟

入江 萱野かやのさんのお祖父じい様の正之助さんは、順教尼先生が出家得度しゅっけとくどなさる時に施主となり、菩提ぼだい親を務められたのでしたね。

萱野 ええ。順教尼に舞踊の指導をしていた養父の万次郎が、狂乱して起こしたのが「堀江6人斬り事件」ですが、順教尼がその犠牲になったことを知って義侠心ぎきょうしんを駆り立てられたのがきっかけでした。幼い頃に妓楼ぎろうに入った順教尼の境遇が、貧乏で小学校もろくに行かずに丁稚でっちに出された自分の境遇と重なったこともあったでしょう。
まぁご縁を語り始めたら本が1冊できるくらい長くなるからカットしますけれども(笑)、順教尼が出家を志して実際に得度するまでには、20数年もの歳月がかかっています。

大石 得度を果たしたのは、確か45歳の時やったな。

萱野 そう。やっぱり両手がないというのが致命的でね。お線香も上げられないし、数珠じゅずも扱えないし、高野山はいんを切らなければいかんけどそれも叶わない。だけど一人だけ、天徳院の金山穆韶猊下かなやまぼくしょうげいかが「私に任せなさい。心で印は切れる」と。反対も多かったけどね。そのご縁をつくったのが祖父だったわけです。
だから順教尼には血縁以上に深い縁を感じるし、僕にとっては乳母車に乗っていた頃から可愛かわいがってもらった〝大石のおばちゃん〟というイメージがいまだにあって、あまり神様扱いされたら困ってしまう。むしろ里の仙人という印象でね。いつも飄々ひょうひょうとして、それは魅力的な方でした。

入江 萱野さんの中では順教尼というより〝大石のおばちゃん〟なんですね。

萱野 親父の代行で、子供の頃からよく駅まで順教尼のお迎えに行っていました。周りからジロジロ見られてつらかったけど、親父が小遣いを弾んでくれるのにつられたんです(笑)。
大きくなってからも親しく声を掛けられ、身内みたいな感覚でしたな。「萱野のぼん、久しぶりやな、元気か?」「時々お祖父ちゃんの夢を見るで」と。また順教尼もうちみたいな所を必要としたんです。気楽に立ち寄れて、何日も自由に作品を描ける場所をね。
そういう点では人に恵まれていたと思う。なんせ天真爛漫てんしんらんまんで誰からも好かれた人ですから。

大石順教尼かなりや会代表

大石晶教(雅美)

おおいし・しょうきょう

昭和25年京都府生まれ。大石順教尼の長男英彦(慈峰)と孝子(智教)の二女として生まれる。順教尼没の18歳まで現在の仏光院にて生活をともにする。会社勤めを経て、平成20年「大石順教尼かなりや会」を設立。23年高野山本王院にて得度。大学他公共団体での講演活動。毎月21日(命日)に大本山勧修寺境内にある順教尼の庵「可笑庵」を開庵し、伝承活動をしている。漫画本『祖母さまのお手々はだるまのお手々』制作。