2020年3月号
特集
意志あるところ道はひらく
鼎談
  • (左)高福寺住職武井全補
  • (中)足利大学理事長牛山 泉
  • (右)相田みつを美術館館長相田一人

相田みつをがひらいた世界

「にんげんだもの」の作品で広く知られ、没後約30年を迎えるいまなお多くの人々の心を励まし、癒し続けている書家・詩人 相田みつを。しかしその人生、作品の根底には、40年以上師事した武井哲應老師の教えや言葉、参禅体験があったことを知る人はそう多くはないだろう。相田作品を人生の糧にしてきた足利大学理事長の牛山 泉氏、哲應老師と相田みつをのご子息である曹洞宗高福寺住職の武井全補和尚、相田一人氏が会して語り合う、人間・相田みつをが貫いた生き方、ひらいた世界——。

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その時の出逢いが人生を根底から変える

武井 相田みつをさんが、私の父・武井哲應てつおうと初めて出逢ったのは昭和17年の秋、ある短歌の会の席でした。その時に批評を求められた父が、相田みつをさんの短歌について、「あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな。この歌なあ、下の句は要らんなあ」と言ったと。それに相田みつをさんが感動し、当時、父が住職を務めていたこの曹洞宗高福寺そうとうしゅうこうふくじ(栃木県足利あしかが市)に通って来られるようになった。父が32歳、相田みつをさんが18歳の時ですね。
その頃、相田みつをさんのご実家は高福寺から歩いて5分もかからないところにあったかな……。

相田 そうです。歩いて3分くらいのところに住んでいました。

武井哲應

たけい・てつおう

明治43年秋田県生まれ。9歳で近所の大慈寺に預けられ、15歳で得度。大本山總持寺、福井県発心寺に掛搭。駒澤大学に学ぶ。昭和16年栃木県足利の曹洞宗高福寺住職。足利工業大学(現・足利大学)理事、学監などを歴任。30年以上にわたり道元禅師の説かれた『正法眼蔵』を講義。62年78歳で遷化。

武井 そして、父は本山總持寺そうじじ単頭たんとう職をおりた後、昭和32年から毎月1回、高福寺で道元どうげん禅師の『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』の講義を始めるんです。32年で332回、徹底的に講義をし、相田みつをさんも出席して見事に教えを吸収していかれた。私は最後の7年間しか講義に参加してないのですが、父の話を聴く相田みつをさんはまるで苦行僧のような雰囲気で、もう必死に講義を聴いていました。

牛山 文庫本の『正法眼蔵』が書き込みなどでボロボロになるくらい熱心に勉強されていますね。

武井 ええ、ボロボロになっていました。後で聞くと、相田みつをさんは講義中の書き込みを家に帰って清書していたそうですね。

相田 哲應老師の講義がある1週間前から、父は食事や睡眠など体調を整え、自分のベストな状態で臨むようにしていました。そして講義を聴いて夜、家に戻ってくると、その要点を有無を言わさず一時間半くらい家族に話して聞かせるんですね。話し終わると、今度はアトリエにこもって講義のノートを綺麗きれいに整理していました。
ですから、父は哲應老師の講義をまさに命懸け、全身全霊で吸収していたんだろうと思います。

牛山 ああ、命懸けで。

相田 それで、私も子供の頃から父には何度も哲應老師との初めての出逢いについて聞かされたんですが、その時の様子を家族の前で実演するんですよ。哲應老師は「煙草たばこはあんなにうまいものかな」と思うくらい、おいしそうに煙草を吸っていたそうなんです。短歌の批評をする時、哲應老師はぷかりぷかりと煙草を吸って、なかなか言葉を出さず、父は固唾かたずを呑んで待っていた。すると、ふと煙草を置いてちらっと短歌を見、先ほどの「あってもなくてもいいものは、ないほうがいいんだな」の言葉をおっしゃったと。父はその言葉に度肝どぎもを抜かれた、ものすごい衝撃だったと言っていました。
短歌の会には父以外にもいろいろな方がいて、哲應老師から批評されたはずなんです。でも、その中で哲應老師のひと言に度肝を抜かれたのは、きっと父だけだったと思うんですよ。父に、

 その時の出逢いが
 人生を根底から変えることがある
 よき出逢いを

という作品がありますが、これはやはり哲應老師との出逢いがあったからこそ生まれたのだと感じます。
よく誤解されていますが、父は高福寺の檀家とかでは全然ないんですね。哲應老師と父はそうした利害関係がまったくなく、うらやましいほど純粋な滅多めったにない師弟関係だったという気がするんです。父がこの足利を生涯離れなかったのも哲應老師がいたからだと思います。

武井 ええ、本当に純粋な、理想的な師弟関係でしたね。

相田 あと、地方のお寺でこれほど長く続いている『正法眼蔵』の勉強会は、全国的にも少ないんじゃないかと父はよく言っていました。おそらく、こんなに素晴らしい講義を自分だけの心にとどめておくのはもったいない、もっと世に知らしめようという思いがあったのでしょう。実際、父はある時期から、哲應老師に教わった言葉や自分の作品をまとめた『円融便り』を出したり、縁のあったNHKに働き掛けて、お正月の特番『こころの時代』に哲應老師に出演していただいたり、高福寺で講演会を開いたりしています。
もし哲應老師が曹洞宗の方ではなかったとしても、他の宗派やクリスチャンだったとしても、おそらく父は生涯ついていっただろうと思います。父は〝人間・哲應老師〟に心服していたんです。

相田みつを美術館館長

相田一人

あいだ・かずひと

昭和30年栃木県生まれ。書家・詩人 相田みつをの長男。出版社勤務を経て、平成8年東京に相田みつを美術館を設立、館長に就任。相田みつをの作品集の編集、普及に携わる。著書に『相田みつを 肩書きのない人生』(文化出版局)などがある。