2017年10月号
特集
自反尽己じはんじんこ
対談
  • 法相宗大本山薬師寺管主村上太胤
  • 鵤工舎舎主小川三夫

人を大成に導くもの

1300年の歴史を持つ奈良・薬師寺。管主・村上太胤師は9歳で薬師寺に入り、橋本凝胤師の厳格な指導の下、僧としての精神的骨格をつくりあげた。宮大工の小川三夫氏もまた「最後の宮大工棟梁」と称された西岡常一氏に弟子入り、宮大工の道を極めた人物である。ともに修行で自らを磨き、この道一筋に歩んできたお2人が摑んだ人生の要諦はどういうものなのだろうか。

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古代建築を生み出した先人の知恵

小川 薬師寺さんとは長いご縁ですが、村上管主とこうして親しくお会いするのは初めてのことですね。同年齢の管主と一度ゆっくりお話ししたいと思っていたんです。

村上 はい。私もこの日を心待ちにしておりました。

小川 昨年(2016年)8月に管主になられて、1年を迎えられたそうですが、1,300年の歴史がある薬師寺の代表になられたわけですから、何かとお忙しいことでしょう。

村上 忙しいことももちろんございますが、それ以上に責任の重さを痛感しておりますね。私が小僧に入った60年前の薬師寺は、創建当時からの建物である東塔を残すのみで、あとはすべて長年の戦禍で焼失してしまい、仮堂のままの状態でした。
これを何とか復興したいというのが歴代管主の悲願だったわけですが、私の師匠である橋本凝胤師の強い信念を、兄弟子の高田好胤師が引き継いで金堂復興を発願するんです。それもただ寄付を募るというのでなく、『般若心経』のお写経勧進によって復興をしようと。
それから9年の歳月をかけて100万巻を超えるお写経をいただき、昭和51年に金堂は落慶式を迎えることができました。以来、西塔、中門、回廊、大講堂が復興され、お写経勧進50年目の今年(2017年)、食堂が落慶しました。白鳳伽藍の復興は今日もなお続いております。

小川 いまも東塔のほうで解体修理が進んでいますね。

村上 こういうことは他のお寺さんにはないことでございましてね。天武天皇、持統天皇のご尽力はもちろんですが、全国の人々の真心をいただいて復興したお寺ですので、片時も感謝の心を忘れることなく、薬師寺をお預かりしていかなくてはいけないと強く誓っているところです。

小川 何と言っても薬師寺は、日本を代表する寺院の一つですからね。師匠の西岡常一棟梁の下で薬師寺の伽藍の復興の仕事をさせていただいた時、三重塔の上から奈良の都を一望したことがありました。西大寺や東大寺などいろいろな建物を眺めながら、私は「僅か60年で、これだけの都をよくぞつくり上げたものだ」という感慨を抱いたんです。
宮大工の修業中だったその頃は、一体どうやって材木を運んだのだろう、設計図もない時代にこれだけの建築物をどうやって建てたのだろうという驚きでいっぱいでした。しかし、ぼちぼち仕事ができるようになり建物の魅力、奥深さが分かってきて最近つくづく思うのは、「山から木を切り出してくる知恵があれば、現場で塔をつくり上げるのは、それほど難しいことではないのではないか」ということです。

村上 それは長年、宮大工として歩まれた小川さんだからこそ、お分かりになる感覚でしょうね。

小川 1,300年前はいまのような知識やクレーンなどの機械技術があるわけではありません。宮大工たちは相当な血と汗を流して知恵を絞り出したという気がするんですね。
例えば、塔の心柱を立てること一つ取り上げても、ロープもなしにどうやって立てたのだろうかと。60年の間に高度な技術を編み出したのでしょうが、本当に大変なことだっただろうと思います。

村上 建造に当たっては、奈良の人だけでなく渡来人たちの技術も総動員したことでしょう。国家事業として取り組んだわけですから、いまの国立競技場をつくるのに近い感覚だったのかもしれませんね(笑)。それにしても古代人の優れた知恵には迫力すら感じます。
棟梁の勘とでもいいますか、建物や木、あるいは土や山を見て、それを最大限に生かすにはどうしたらよいかを瞬間的に掴み取ることができる優れた名人がいたのは間違いないと思います。

小川 感心するのは、渡来人が高度な技術を持っていたとしても、それを真似るのではなく、日本の気候風土に合った形にアレンジしていることです。向こうの建物は雨が少ないので軒が短い。だけど、古代の日本人は建物の基壇を高くして軒の出を大きくした。そういう工夫を随所でやっておりますからね。現代の私たちには、到底真似できることではありません。

法相宗大本山薬師寺管主

村上太胤

むらかみ・たいいん

昭和22年岐阜県生まれ。31年9歳で薬師寺に入山。43年龍谷大学文学部仏教学科卒業、薬師寺執事、副執事長、執事長、副住職を歴任し平成28年管主に就任。薬師寺岐阜別院住職、薬師寺まほろば塾塾長も歴任。著書に『仏法の種まき』『かたよらない こだわらない とらわれない——般若心経の心』(講談社)など。

創建時の生活を守り抜く師・橋本凝胤

小川 村上管主が薬師寺に入られたのは60年前ということですが、まだ小学生ですね。

村上 9歳でございました。

小川 ああ、そんなに幼い頃に。

村上 父が岐阜にある別院の研修道場をやっておりましてね。やはり橋本凝胤師の弟子だったんです。私は時々岐阜に来る師匠から「うちに来んか。おいしい饅頭もあるぞ」と言われておりまして(笑)、父も「師匠が元気なうちに修行に出したほうがいい」と考えていたようですね。9歳ですから深く考えることはありませんでしたが、それでも「一晩考えさせてほしい」と言ったそうですよ(笑)。
師匠は60歳の男盛りで、それはそれは厳しいことで有名な方でした。ご自身も1300年前の伝統的な僧侶の生活形態をそのまま守り、肉や魚は食べない、酒も飲まない、奥さんも持たない。弟子を育てること、薬師寺を復興させることが一番の願いという厳格な人でした。
寺には高田好胤師以下、兄弟子たちが何人もおりました。私は小学生ですから、兄弟子たちに言わせれば私への教育は比較的甘かったそうですが、もともと皆から鬼みたいに思われている人ですから、少しくらい甘くても鬼であることには変わりありません(笑)。

小川 そうですか。私も凝胤師には何度もお目にかかっていますが、鬼と恐れられた西岡棟梁を厳しく叱り飛ばすくらい気性の激しい方でした。

厳格なことで有名だった橋本凝胤師©薬師寺

村上 何も知らない子供が問答無用に、いきなりそんなお寺の生活を強いられるのですから、それはもう大変でした。寺の生活に馴染むのが一番の修行です。朝4時半に起きて兄弟子たちとお勤めをしてお掃除をして、6時にはお粥さんをいただくのですが、これが目玉が映るようなしゃぶしゃぶのお粥でございましてね。
朝食を終えると、学校に行くまでの2時間、毎日師匠の講義があります。「唯識三年倶舎八年」と申しまして、法相宗では唯識の勉強をするのに3年、その前に倶舎論という書物を8年学ばなくてはいけません。難しい講義でも1,000日間聞き続けていれば分かってくるという「千日聞き流し」という言葉もございますが、小学生の私には宇宙の言葉を聞いているようで、何のことかはさっぱり分かりませんでした。
何せ小学生ですから朝、起きるのが辛い時があります。寝過ごして怒られる、夜眠たくて居眠りをしているとまた怒られる。まぁ、怒られることが小僧の仕事のようなものですね。逃げ出したいと思うことがあっても、私の場合、帰る先もお寺ですから観念して薬師寺にいる以外にありません。いま考えると、結果的にそれがよかったのだと思います。

小川 兄弟子さんたちも、やはり厳しかったのですか。

村上 ええ。上の兄弟子が怒られると、だんだん下のほうにそのしわ寄せがきます。私の下にいるのは猫だけでした(笑)。
まだまだ薬師寺も戦後の貧しい頃で、食事は実にお粗末でしたから、中学生になっても体重は29キロしかなかったんです。小僧さんたちがあまりにも痩せて可哀想だというので、村の人たちが時々おかずを差し入れてくださるのですが、そういう時も一番上の兄弟子から順番に取っていって、私が取ろうとしても、もうありません。その時は兄弟子たちを随分羨ましく思ったものですが、小僧時代にこういうハングリー精神を身につけさせていただいたこともまた、貴重な経験でございました。

鵤工舎舎主

小川三夫

おがわ・みつお

昭和22年栃木県生まれ。栃木県立氏家高校卒業直後に西岡常一棟梁の門を叩くが断られる。仏壇屋などでの修業を経て44年に西岡棟梁の内弟子となる。法輪寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔の再建に副棟梁として活躍。52年鵤工舎を設立。以後、今日まで全国各地の寺院の修理、再建、新築などを続ける。著書に『木のいのち木のこころ(天・地・人)』(新潮文庫)『棟梁——技を伝え、人を育てる』(文春文庫)など。