2016年11月号
特集
闘魂
対談
  • 東北福祉大学特任教授、古川商業高等学校女子バレーボール部元監督国分秀男
  • 明成高等学校男子バスケットボール部ヘッドコーチ佐藤久夫

かくて勝利への
道はひらけた

無名だった古川商業高校女子バレーボール部を12回全国制覇へと導き、その名を全国に轟かせた元監督の国分秀男氏。片や仙台高校に続いて明成高校男子バスケットボール部を全国屈指の強豪に育て上げたヘッドコーチの佐藤久夫氏。ともに日本一の偉業を成し遂げた背景にはどのような指導方法があったのだろうか。心に重点を置いた独自のスタイルを確立してきた2人に、その闘魂の人生を振り返っていただいた。

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人間教育を抜きに勝ち続けることはできない

国分 5日前、佐藤先生がヘッドコーチを務められる明成高校男子バスケットボール部の練習を見学させていただきました。私は平成16年に古川商業高校(現・古川学園高校)の女子バレーボール部監督を引退して以降、実際のスポーツ指導の様子を見る機会がなかったのですが、感動しましたね。
話に聞いていたとおり、佐藤先生の指導も、チームの雰囲気もとても素晴らしい。とにかく、佐藤先生ご自身がバレーボールの3倍の広さのコートを選手たちと同じように移動しながら、時には自身で手本を示し、大声で檄も飛ばされている。いや、さすがだなぁ、と思いました。しかも、先生はお年が確かいま……。

佐藤 昭和24年生まれの66歳です。

国分 でしょう? 私は55歳を過ぎた頃からもう体力がヘロヘロで58歳で監督をリタイアしましたが、先生はいまでも選手とともに汗を流されている。その姿を見ながら、さすがに全国3連覇を達成する指導者は違うと心から感心したんです。

佐藤 古川商業時代、無名の女子バレーボールチームを率いて12回の全国優勝を遂げられた大先輩の国分先生にそこまで言っていただくと、恐縮してしまいます。

国分 もう一つ申し上げると、佐藤先生は私学が優勢とされる中にあって、公立の仙台高校を2度の全国制覇に導かれた。加えて明成高校に移られてからも全国3連覇に導かれた指導者です。ふんぞりかえっていても不思議ではないのに、そんな様子は微塵もない。何のスポーツでもそうですが、これは強いチームをつくる上で指導者が忘れてはいけない基本的な姿勢だと思います。
かつてモントリオール五輪で女子バレーを金メダルに導いた山田重雄さんにお会いした時、私は「高校で強いチームをつくる秘訣を一つ挙げるとしたら何ですか」と質問したことがあります。この時、山田さんは「一秒でも長く選手の傍にいることだ」と即座に答えられました。山田さんのこのひと言が私の指導法を大きく変えたのですが、佐藤先生の指導を拝見した時、その言葉を改めて思い出していました。

佐藤 スポーツに勝敗はつきものです。勝ちに対する執念は大事ですが、私は一方で勝敗にこだわってはいけないといつも思っています。むしろ、私が培ったスポーツ哲学やスポーツマンとしての心得を選手たちに伝え、それによって少しでも人間的に成長してくれることが私の願いですね。
そのために大事なのは、選手たちの内面に迫ることです。選手は皆個性があって自信に満ちた者もいれば、そうでない選手もいるわけですね。一人ひとりの伸びる芽を引き出すには、指導者が十分時間をかけて選手たちに接し、しかも一瞬でも選手のよさを見逃さない観察力が求められると私も思っています。

国分 見学に伺った時、体育館の入り口に「礼儀を知らない者は入るべからず」と書かれてあるのを見て、佐藤先生が素晴らしい教育者でもいらっしゃることを感じました。一般にスポーツ指導者の発想は「勝つ」というところから生まれるものですが、佐藤先生は逆です。人づくりをとおして強いチームをつくろうとされている。
そのことは私も常に感じてきたことで、人間教育を抜きにして本当に勝ち続けるチーム、愛されるチームはできません。1、2回、たまたま優勝できたとしても、全国のトップクラスを長く維持するのは難しい。

佐藤 やはり私は教員タイプの指導者なのでしょうね。公立高校時代は教員としてバスケット部の監督を務め、部員が集まらなかったり、いてもなかなか成績が出せないということを長年経験してきました。自信を持てない生徒に「できる」という喜びを感じさせてあげたいという気持ちが人一倍強いのだと思います。
私が四苦八苦していた時、国分先生は既にバレーボール界で名を成していらっしゃいました。その頃から先生は私の憧れでした。あれだけの優秀な選手をどのように育てられているのか、実績を出すにはどうしたらいいのか。そのことが常に頭にありました。苦しい時期でしたが、この期間が私自身の指導者としての心のあり方を確立させてくれたように思います。

東北福祉大学特任教授、古川商業高等学校女子バレーボール部元監督

国分秀男

こくぶん・ひでお

昭和19年福島県生まれ。慶應義塾大学卒業後、京浜女子商業高等学校(現・白鵬女子高校)を経て、48年宮城県の古川商業高等学校(現・古川学園高校)に奉職。商業科で教鞭を執る傍ら、女子バレーボール部を指導。県大会以上の優勝150回。全国大会出場77回、うち全国制覇12回。平成11年には史上5人目の3冠(春、夏、国体)の監督となる。8年から11年までには春、夏ともに4年連続決勝進出という高校バレー史上初の快挙を成し遂げる。16年から東北福祉大学特任教授。著書に『夢を見て 夢を追いかけ 夢を食う』(日本文化出版)がある。

人生を変えた東京五輪

佐藤 国分先生を尊敬してきた一人としてお聞きしたいのですが、そもそも、どういういきさつでバレーボール部の監督になられたのですか。

国分 最初はバレーボール部の監督になるなど考えてもいませんでした。私は慶應大学に進み、いい仲間と出会って会社を経営することが夢だったんです。ところが、これも運命だったのでしょうね。昭和39年の東京五輪のバレーボール全日本女子の試合を白黒テレビで見たことが私の人生を大きく変えました。

佐藤 この時の監督が「鬼の大松」こと大松博文さんで、鋭い追求の修練を重ねた末の指導で見事金メダルを獲得したことは有名ですね。

国分 私は1回戦からずっとテレビで応援していましたが、決勝戦で日本は3-0でソ連に圧勝するわけです。これには感激しましたね。メインポールに日の丸が掲げられる様子を見て涙が溢れて仕方ありませんでした。
というのも、対戦相手のソ連の選手たちは国の全面的な支援を受けて終日、練習に明け暮れていました。片や日本の選手はどうかというと、5時までは普通に会社勤めをして、そこから夜中まで命懸けの練習をする。体つきも全く違う。人間とは知恵を絞り、工夫を凝らし、努力を積み重ねれば世界一になれる。そう強く思ったんです。

佐藤 それでバレーボールの指導者になろうと。

国分 私は高校時代、バレーボールの選手でしたが、福島県大会3位止まりで、大学でも体育系サークルにいた人間ではありません。だけど、日本のバレーチーム、しかも後進地域の東北の高校生をどうしても日本一にしたくてこの世界に飛び込もうとしたんです。
ところが、調べてみると監督はその学校の教員でなくてはなれないと分かりました。そこで既に決まっていた就職をキャンセルして、商業科の教員免許を取るために1年間は聴講生となりました。その合間に神奈川県屈指の強豪校だった京浜女子商業高校(現・白鵬女子高校)にお願いしてボール拾いをやらせてもらい、その後に教員として就職したんです。
佐藤 東京五輪の時、私は中学3年生でしたが、国分先生と同様、東洋の魔女たちの活躍に涙を流したことを、いまも覚えています。
その頃、私はバスケットばかりに熱中していて、学校の成績は限りなくビリケツでした。両親から「バスケットなどやめてしまえ」といつもボコボコに言われてヘコんでいる時に女子バレーの決勝戦をテレビで見て、「ああ、俺もこんなオリンピックの選手になりたい」と。それで、バスケットを続けようと決めました。
高校に入ると「実業団に行くよりは、学校の先生になって子供たちに教えるほうが一生バスケットに関わっていけるのではないか」と考えが変わって、体育大学を出ると宮城県の公立高校の教師になりました。だから、私が教師になったのは、いつまでもバスケットに関わっていきたいという気持ち、ただ、それだけだったといってよいかもしれません。

国分 そういう意味では、私も全く同じです。

佐藤 ところが、昭和48年、採用試験に合格して赴任した先は、バスケット部はおろか体育館もないような学校だったのですね。バスケットをやろうと思ったら、グラウンドをまず整備してラインを引くところから始めなくてはいけませんでした。使用するのはゴムボールです。声を掛けると女子生徒ばかり8人ほどが集まってきましたが、田植えや稲刈りの時期になると学校を休んでしまう。
しかも、教えてもすぐにできない運動能力のない子ばかりで、1年のうち300日ほどは「辞めさせてください」「もっと頑張れ」の応酬でした。だけど、逆上がりのできない子をできるように根気強く丁寧に教えてあげると、効果が如実に表れることが分かってきたのです。「できる」という実感を体験させる教師としての喜びを知ったのはこの頃ですね。
約10年間、未知の世界だった女子バスケットボール部で経験した話法と指導の工夫は、後で大いに役立ちました。

明成高等学校男子バスケットボール部ヘッドコーチ

佐藤久夫

さとう・ひさお

昭和24年宮城県生まれ。日本体育大学卒業後、教員として宮城県内公立高校で女子バスケットボール部を11年指導。泉松陵高校で男子を3年指導した後、母校・仙台高校へ赴任。16年間の在任中は常に全国トップクラスの成績を維持し、ウインターカップ優勝2回など数々の好成績を収める。退職後、日本バスケットボール協会強化本部選任コーチ。ヤングメン日本代表コーチ、ユニバーシアードヘッドコーチ、日本代表コーチを歴任。現在、明成高校男子バスケットボール部ヘッドコーチ、仙台大学体育学部准教授。著書に『普通の子たちが日本一になった』(日本文化出版)がある。