2017年3月号
特集
艱難汝を玉にす
  • 臨済宗国泰寺派全生庵住職平井正修

山岡鉄舟の歩いた道

山岡鉄舟といえば、剣・禅・書の達人にして、歴史に残る江戸城無血開城の立役者として名高い幕末維新の英傑である。我が国を国難から救った鉄舟は、いかにしてその力量を養ったのか。鉄舟縁の全生庵住職であり、間もなく弊社より『山岡鉄舟 修養訓』を発刊する平井正修氏に、その足跡を交えてお話しいただいた。

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敵中に単身乗り込み江戸城無血開城の道を開く

私が住職を務める全生庵は、明治16年、現在の東京都台東区に建立されました。幕末維新で国のために命を落とした英霊の菩提を弔うため、かの山岡鉄舟によって創建されたお寺です。

物心ついた頃から、先代の父が坐禅会でその人となりについて語るのを聞いて育った私にとって、山岡鉄舟という人物は血縁関係こそないものの、お祖父さんのように身近な存在でした。長じて入山した静岡県三島市の龍澤寺は、奇しくも鉄舟が禅の修行に励んだ名刹であり、今度は同じ道を志した先達として、厳しい修行における心の拠り所となりました。

修行を終えて全生庵の住職になってからは、当庵での坐禅会をはじめ様々な場で法話をさせていただくようになりましたが、やはり父がそうであったように、当庵を建立した鉄舟の話題は欠くことができません。一人でも多くの方に鉄舟という人物について知っていただきたい。お話を重ねる度に、その思いを強くしてまいりました。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と並び称される山岡鉄舟は、天保7(1836)年、幕臣であった小野朝右衛門高福の四男として江戸の本所に生まれました。幼少期より剣・禅・書の修行に励み人物を磨いてきた鉄舟は、凋落著しい幕府の限界を見極め、速やかに朝廷の命を奉じて攘夷を成し遂げ、大政奉還を図るべく立ち上がりました。

大政奉還後、鉄舟は新政府東征軍の総攻撃で江戸が火の海となるのを回避すべく、15代将軍徳川慶喜の使者として勝海舟の手紙を携えて東征軍の大総督府に乗り込み、西郷隆盛に徳川慶喜の恭順の意を伝えて攻撃の中止を訴えます。これによって西郷と勝海舟の会談が実現し、江戸城は戦火を逃れ無血で明け渡されることになったのです。

維新後は新政府に仕え、10年にわたり若き明治天皇の侍従を務めた後、春風館という剣術道場を開いて人材育成に励み、明治21(1888)年、53歳で亡くなりました。

こうした足跡を辿ると、尊王攘夷の立場で活動していた鉄舟が、江戸城無血開城に向けて動いたところに人生の一大転機があったことが見て取れます。ある意味変節とも取られかねないこの行動の転換に対し、批判めいたことを言う人が皆無なことも、また注目に値します。

山岡鉄舟という人は、身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)の偉丈夫であり、殺気立った東征軍の只中にも堂々と乗り込んで行く肝の太さから、非常に剛直な印象を受けます。しかし禅によって練り上げられたその心は実に柔軟で、自由自在。だからこそ、目まぐるしく変転する時局の中で己の成すべきことを見極め、江戸城無血開城へ動くことができたのだろうと思うのです。

鉄舟は西郷のもとへ向かう時、どうやって敵陣を潜り抜け面会を果たすつもりかと勝から尋ねられ、「それは我が胸中にあります」と答えました。前もってこうしよう、ああしようと決めてかかれば心が自由を失い、不測の事態に即応できなくなることを言っているのだと私は思います。

禅というと堅い印象を持たれがちです。しかし禅では、「水は方円の器に随う」ということが繰り返し説かれます。水は四角い器に入れば四角く、丸い器に入れば丸くなる、そうした自在さが心にも大切だというのです。人はともすれば、好き嫌い、損得、そうした周りの環境によって心が固まり、身動きが取れなくなりがちです。しかし、本当は自分という固定したものなどないことに気づき、自分というこだわりを捨ててこそ一番の力が発揮できるのです。

臨済宗国泰寺派全生庵住職

平井正修

ひらい・しょうしゅう

昭和42年東京都生まれ。平成2年学習院大学法学部政治学科卒業。静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。13年同道場下山。15年より中曾根元首相や安倍首相などが参禅する全生庵の第七世住職に就任。著作に『最後のサムライ 山岡鐵舟』(教育評論社)『囚われない練習』(宝島社)『男の禅語』(三笠書房)など。致知出版社より『山岡鉄舟 修養訓』を発刊予定。