2017年3月号
特集
艱難汝を玉にす
  • 山崎理恵

苦しみの中で
咲いた笑顔

全盲の
重複障碍を生きる
娘と母の愛情物語

高知市に住む主婦の山崎理恵さんは2005年、第三子となる女の子を授かった。先天的に目や手足に異常があるゴルツ症候群という難病を抱えて生れてきた音十愛さんである。山崎さん親子はどのような山坂を超えながら歩んできたのか。これまでの12年間を振り返っていただいた。

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「この子には両目がありません」

音十愛が誕生したのは2005年1月26日のことです。山崎家の第3子。女児ならば音十愛と名前は決めていました。土佐・高知の女性を象徴する「乙女ねえやん(坂本龍馬の姉)」にちなみ、音を感じ、愛で満たされた子供になるように、との願いを込めたのです。誕生が近づくにつれて、家族の希望は大きく膨らんでいました。

ところが、出産後、音十愛はすぐに別室に連れて行かれたのです。なかなか会わせてはもらえません。小さく生まれたので保育器に入れられているのだろう、きっとそうに違いないと自分に言い聞かせました。2日目、看護師さんが寄ってきて、おっしゃいました。

「お母さん、先生からちょっと話があるからね」

「あっ、これはただごとではない……」

看護師さんのこのひと言に、私は凍りつきすべてを察しました。

医師からまず告げられたのは、音十愛に口唇口蓋裂(唇に裂け目がある病気)があり、両手首や足首などに先天性の異常があることでした。頭を殴られたようなショックを受けた私に、医師はさらに「この子には実は両目がないんですよ」と言葉を加えられたのです。

「先生! 嘘でしょ」

私はそう叫び、その場で泣き崩れました。頭の中は真っ白になり、主人と一緒に一体どのくらいの時間泣き続けたでしょうか。

と同時に「予定日の1か月前まで無理して働いたのがいけなかったのだろうか」「あの時、怒りの感情を抱いたのがこの子のストレスになったのだろうか」と自分を責めに責めました。意識を失いかけるほど泣き、それでもなお涙が溢れて止まらなかったこの日のことを、いまも鮮明に覚えています。

際限のない深い悲しみの淵に沈んでいく私を救ったのは、「3人も産んでくれてありがとう。この子は自分たちを選んで生まれてくれたのだから、一所懸命育てていこう」という主人の言葉でした。

上唇が割れ、口を閉じることができない音十愛は、ミルクを飲むこともままならない状態でした。ある程度の体重がないと唇の手術はできないので、それまではホッツ床というマウスピースのような装具を使って哺乳をしやすくします。しかし、音十愛はホッツ床を装着しても哺乳瓶を吸うことができず、鼻からチューブで入れてもすぐに吐いてしまうのです。重い障碍のために飲み込んだものが逆流するためでした。

その頃から目立つようになったのが激しい自傷行為です。目が見えず、知的障碍もあったので、自分の感情をどのように表現したらいいのかが分からないのです。頭を床に叩きつけたり、耳を千切れるほど叩いたり。まるで自分を傷つけることで気持ちを紛らわせ、自分が生きていることを確認しているかのようでした。

激しく動くので、鼻に通したチューブはすぐに抜けます。その度に私が馬乗りになって押さえつけて無理やり入れると、それが苦しくて泣き叫びます。私も自分の体で試してみましたが、苦しくて耐えられるものではありません。本人にとっては虐待にも思えたことでしょう。

さらに、音十愛を苦しめたもう一つのものが義眼の装着でした。女の子らしい表情になるように、という医師のアドバイスで始めたものですが、目のサイズに合わせるには義眼も小刻みに大きくして無理に押し込む必要があります。しかも、目の裏が炎症を起こせば、その都度義眼を吸盤で引っ張り出して洗浄しなくてはいけません。目尻がピッと切れ、あまりの痛さに激しく泣くこともしょっちゅうでした。

そういうこともあって、音十愛は人に触れられることを極度に恐れました。昼夜を問わず泣き続け、どんなにあやしても寝ようとはしませんでした。そのうちにミルクも受けつけなくなり、みるみる小さくなっていくのが分かりました。このままだと干からびて死んでしまうのではないか。そう悩みつつも、どうしていいか分かりませんでした。私自身も、疲労と寝不足でその日その日を生きるだけで精いっぱいの状態だったのです。

山崎理恵

やまさき・りえ

昭和42年香川県生まれ。子育てをしながら高知市内の病院で看護師、ケアマネジャーとして勤務した後、平成17年重度の重複障碍児である音十愛さんを出産。現在は市内の施設に勤務しながら、障碍児自立支援活動を続ける。