2023年2月号
特集
積善せきぜんいえ余慶よけいあり
対談
  • 東洋思想研究家田口佳史
  • 国際中江藤樹思想学会理事長中江 彰

中江藤樹と石田梅岩

二人の先哲が教えるもの

江戸時代、人間の本質を突き詰め、人としての道を庶民に説き続けた2人の先哲がいた。「近江聖人」と仰がれた中江藤樹と「石門心学」の祖とされる石田梅岩である。日本精神の礎となった2人の足跡は、混迷を続けるいま日本人に一筋の光明となるものである。2人の先哲の生き方について東洋思想研究家の田口佳史氏と、国際中江藤樹思想学会理事長・中江彰氏に語り合っていただいた。

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石田梅岩と松下幸之助の共通点

田口 きょうは遠路、東京・世田谷にある私の仕事場まで足をお運びいただいて、恐縮です。

中江 いえ、中江とうじゅと石田梅岩ばいがんは共に日本人の精神的骨格となった人物ですから、お二人について語り合えるのを楽しみに藤樹の生誕の地(滋賀県高島市)からまいりました。私も中江という姓ですが、子孫ではございません(笑)。

田口 私は藤樹が村人に教えていた藤樹書院に3回行ったことがあるんです。若い頃、50年くらい以前のことですが、住友の発展に貢献した伊庭いばさだたけ(ていごう)(滋賀県近江おうみ八幡はちまん市出身)の伝記を書くに当たって足跡を辿たどるうちに、藤樹の影響を受けていることが分かりました。2人は共に琵琶湖びわこの湖畔の出身なのですが、貞剛の考え方のベースには藤樹の『おきなもんどう』が明らかにあると思いました。

中江 そうでしたか。藤樹のお膝元ひざもとで生活していながら、そのことは存じ上げませんでした。
藤樹も梅岩も江戸時代に生をけ、身分にかかわらず庶民に人としての道を説くわけですが、田口さんはどういうきっかけで梅岩に関心を抱かれたのですか。

田口 大きく3つあるのですが、1つには私が40代の頃、あるシンクタンクの老舗しにせ研究会に関わることがあって、三井や住友をはじめ老舗を徹底的に調べたんですね。どこも素晴らしい家訓や伝統が息づいていて、その淵源えんげんを辿るうちに梅岩教学に行き着きました。いわゆる石門せきもん心学しんがくは弟子のじまあんによって形づくられたものなので、私はあえて梅岩自身の思想を梅岩教学と表現しますが、老舗を研究する上では梅岩教学を土台に考えることが大変重要だと気づいたんです。
2つ目は、同じシンクタンクで近江商人道、伊勢商人道の研究を始めた時です。調べるうちに、ここでも梅岩教学が行き渡っていたことが分かったんですね。古い文献を読むと、丁稚でっち小僧のような人でも商人道についてそれなりのことをきちんと発言している。
ここのところは梅岩教学の要点となる部分だと思うのですが、彼が説いた商人道はいまのような金銭至上主義の経営学、経済学ではないんですね。もちろん、経営にも商業にも役立つものであることは確かでしょう。しかし、それ以上に人間としていかに立派な生き方をするかという、人間の本質を突き詰めている。だから、丁稚小僧のような人でも人間をつくるための勉強をないがしろにすることをしない。

中江 なるほど。人間の本質を突き詰めたという点では、藤樹もまったく同じです。

田口 3つ目は、2022年、慶應丸の内シティキャンパス(慶應MCC)で経営コンサルタントやビジネス・スクール教授など社会人を相手に、「梅岩教学と石門心学」をテーマに3か月6回連続講座を行った時です。新札の顔となる渋沢栄一が注目を集める中、私があえて梅岩を選んだのは、これからの経営を考える上で日本人の勤労観、職業観、人生観の根源にあるものをしっかりと見つめなくてはいけないし、その指針が梅岩が説く商人道にあると思ったからなんです。
現代人が梅岩に学ぼうとしない理由の一つは、商人道は経営論、企業論よりも一段下のように思っているからです。そこが梅岩を見誤っているところであって、そうではない。先ほども申し上げたように、人間としてのあり方をベースにした考えだからビジネスはうまくいくんです。そこを抜きにして「新しい資本主義」も何もありませんよ。
私は若い頃、松下幸之助さんに「経営とはどういうものですか」と質問したことがあります。すると、「一つには宇宙の哲理を知ること、もう一つは人間の把握だ」という答えが返ってきました。「宇宙の哲理」とは易しく言えば正しいことを実践し善なるものを追求すること、「人間の把握」とは人間の本質を熟知する人でないと商売はうまくいかないという教えだと解釈していいと思います。
このように梅岩と松下幸之助さんの説く考えはとても似通っているものがあって、これこそが経営論の本質だと思うんです。

東洋思想研究家

田口佳史

たぐち・よしふみ

昭和17年東京都生まれ。新進の記録映画監督としてバンコク市郊外で撮影中、水牛2頭に襲われ瀕死の重傷を負う。生死の狭間で『老子』と運命的に出会い、「天命」を確信し、東洋思想研究に転身。「東洋思想」を基盤とする経営思想体系「タオ・マネジメント」を構築・実践し、1万人超の企業経営者や政治家らを育て上げてきた。配信中の「ニュースレター」は英語・中国語に翻訳され、海外でも注目を集めている。主な著書(致知出版社刊)に『「大学」に学ぶ人間学』『「書経」講義録』他多数。

生まれついて気質に君子の風あり

中江 私は就職の関係で藤樹の生地に生活することになったわけですが、これまで70年の人生に思いを巡らせますと、不思議な糸でいろいろなものがつながってきたなという思いを強くするんです。学生時代、中国思想史の講義を受けた時、太極図説や二元論にげんろんといった難しい内容に辟易へきえきしたものですが、そういう中で鮮明に記憶に残っているのが中国・北宋時代の学者・しゅうれんけいの「あいれんの説」というものでした。

田口 そうですか。「その人品じんぴんはなはだ高くこうふうせいげつごとし」とうたわれる周濂渓は私が最も尊敬している人物です。

中江 そこで周濂渓はこう述べるんです。「昔から花といえば多くの人は菊や牡丹ぼたんのような華麗な花を好むが、私は何よりも蓮の花を愛する。なぜなら、汚い泥の中から真っ直ぐに茎が伸びてきて、けれどもその汚い泥に何ら染まることなく、美しい花が咲き、しかもその花の香りが遠くまで及んでいる。このような蓮の花を愛する人は、果たして何人いるだろうか」
後々、藤樹を研究する中で周濂渓と藤樹を比較すると、その人柄や生き方が似ていることが分かりました。社会的な地位や名誉にこだわることなく、清貧な生活に甘んじながらも、己の信ずる道を誠実に歩み続けた。そこに非常に心をき付けられましたね。

田口 いや、全く同感です。

中江 それを裏づける資料も見つけることができました。藤樹の弟子・熊沢蕃山ばんざんの著書に「中江氏は、生まれついて気質に君子くんしふうあり。徳業を備えたるところある人なりき」と記されているんです。思うに、周濂渓も藤樹も、徳の高い君子の風格を備えていたのでしょう。どこにでもいるような博覧強記はくらんきょうきを自慢する学者とは明らかに違っていたのだと思います。

田口 中江さんは藤樹に関する著書を何冊もものされていますが、本格的に研究を始められたのはいつ頃ですか。

中江 安曇川あどがわ町(現・滋賀県高島市)教育委員会にいた頃に、近江聖人せいじん中江藤樹記念館の館長職を拝命しましてね。不勉強でしたから夢中になって学びましたが、そのうちにすっかり藤樹に魅せられてしまいました。ですから研究を始めて22、3年になりましょうか。これからもさらに深めていきたいというのがいまの心境です。

田口 ひどく個人的な話になりますが、藤樹に関して思い出したことがあります。長男が子供の頃、私は『論語』のどくなんかを徹底してやらせていたんです。はしの上げ下ろしまで厳しく指導していましたから、かなりのスパルタ親父でした(笑)。その息子が中学生の頃にふといなくなりましてね。数日後に電話が掛かってきました。「いまどこにおるんだ」と聞くと「藤樹書院にいる」と。

中江 東京から高島の藤樹書院に来ておられたのですか。

田口 はい。「何でそんなところにいるのか」と尋ねたらこう言うんです。「頑固親父のために何で孝行しなきゃいけないのかと思っていた時に藤樹の『こうきょう』の教えに触れ、その意味が分かったことがあった。その感覚をもう一度取り戻すには藤樹のところに行くしかないと思った」
息子はまるでいまも藤樹がそこにいるかのような感覚で藤樹書院に向かったのだと思います。藤樹は400年の時代を超えて現代の少年の心すらつかむような魅力的な人物だったのかと、そう思って一人感慨にふけっていたことを覚えていますね。

国際中江藤樹思想学会理事長

中江 彰

なかえ・あきら

昭和28年大阪府生まれ。佛教大学文学部史学科卒。花園大学大学院文学研究科修士課程修了(仏教学)。近江聖人中江藤樹記念館館長を経て現在国際中江藤樹思想学会理事長。著書に『中江藤樹一日一言』『中江藤樹人生百訓』(共に致知出版社)『中江藤樹のことば』(登龍館)など。