2022年3月号
特集
渋沢栄一に学ぶ人間学
我が心の渋沢栄一①
  • エッセイスト鮫島純子

世界の平和を願って
活動を続けた祖父

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幼心に焼きついた祖父・渋沢栄一の姿

私は祖父・渋沢栄一についてのご質問に答え、お話しさせていただくことがございます。講演会の司会者の方が「日本資本主義の父」という言葉で祖父を紹介してくださいますと、皆さん、どのような思いでこの言葉を受け止めてくださるのだろうかと、つい考えてしまうことも少なくありません。

私の知る祖父は資本主義を云々うんぬんする以前に、皆が豊かで幸せであるようにという人類愛からすべての発想・行動をしていたように思います。昨今の渋沢栄一ブームを通して、そういう祖父の人柄を広く知っていただけるようになったのは、ありがたいことだと思っております。

祖父は私が10歳の時に亡くなりましたが、生前は方々ほうぼうに一緒に出掛けることがありました。これからどこに行くのか、どういう意味を持つものなのかなど考えることもなく、ただお祖父じい様とご一緒できて嬉しいという思いだけでしたけれども、それが世界の平和や日本を豊かにするためのもの、あるいは人助けのお仕事だったことを後になって思い当たり、驚くこともたびたびでした。

昭和2年、幼い私は東京・青山にある日本青年会館で祖父に手を引かれて壇上に上がりました。その時に私が大泣きして「子爵ししゃく(渋沢栄一)が困った」という記事が、いまも渋沢史料館に残っておりますよし。私たちの前に新聞記者が並んで一斉にマグネシウムのフラッシュをいたので、それに驚いたのだと思います。

その頃、アメリカ西海岸では排日運動が盛んでした。移民した日本人が安い賃金でよく働くので、仕事を奪われるのではないかという危機感から起きた運動でしたが、日本に永年いらっしゃった米国人宣教師・ギューリックさんは、両国の子供たちが幼い頃から交流、例えば手作りの人形を贈り合う日米親善人形交換を提唱し、その軋轢あつれきを解決しようとなさいました。祖父は青い目の人形の日本側の受け入れを買って出て、その日は日本青年会館で記念のセレモニーを行う日でした。

また、私が小学生の頃、銀座のミキモトに、祖父母と共に母や伯母、従姉妹いとこなど女性ばかりお呼ばれすることがありました。御木本みきもと幸吉翁こうきちおうが養殖真珠の技術を開発するまでのご苦労を描いた映画を見せていただいた後、お昼にアコヤガイのフライをご馳走してくださいました。「フライの中から丸い真珠が出てきますから、ご注意の上、召し上がってください」とご説明を受けました。皆、一斉に静かになって、舌で真珠を探りながらいただく様子は何とも微笑ほほえましいものでした。

このご招待は、御木本翁の祖父に対する恩返しと伺いました。当時、欧米には真珠の養殖技術がありませんでしたから、希少の天然の真珠が高額で売買されておりました。そこに養殖真珠をご披露された御木本さんへの圧力は大変なもので、人工真珠だと訴えられ裁判にかけられて多額の費用を捻出ねんしゅつせざるを得なくなることもあったようです。祖父は御木本さんのそのような資金面でのご苦労を知って支援を惜しまず、ミキモトは試練の時期を乗り越えることができたそうです。

御木本さんはどのような形で返礼したらよいかと、私たちをお招きいただいたと後で知りました。ちなみに、私がいまもよそ行きに付けていくブローチは、その時の真珠を母が集めてつくってくれたものです。

エッセイスト

鮫島純子

さめじま・すみこ

大正11年東京都生まれ。祖父は渋沢栄一、父は栄一の三男で実業家の渋沢正雄。女子学習院を卒業後、20歳で岩倉具視の曽孫・員重氏と結婚。99歳を越えた現在も執筆や講演などを通して渋沢栄一の生き方や長年の心の探究をもとにした心豊かに生きる知恵を伝え続けている。著書に『祖父・渋沢栄一に学んだこと』(文藝春秋)『97歳、幸せな超ポジティブ生活』(三笠書房)など。