2019年3月号
特集
志ある者、事竟ことついに成る
対談
  • (左)ドムスデザイン社長戸倉蓉子
  • (右)弁護士菊間千乃

意志あるところ
道はひらく

看護師から建築家になった戸倉蓉子さん。アナウンサーから弁護士になった菊間千乃さん。ともに未知のフィールドに果敢に挑み、見事に転身を果たしてきた意志の人である。自らの志に従ってユニークな人生を歩んでこられたお二人に、各々の原点や転機を交えながら、志を立て、それを全うする上で大切なことを語り合っていただいた。

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ともに小学生時代の夢を実現して

戸倉 菊間さんとはきょうが初対面ですけど、アナウンサーをなさっていた時によくテレビで拝見していました。その後弁護士に転じられたと知った時にはびっくりしました。すごい方だなぁって。

菊間 いえいえ、そんなことありません、普通の人間ですから(笑)。
フジテレビのアナウンサーになりたいというのは小学6年生の頃からずっと思っていて、卒業アルバムにもそのことを書いたんです。おかげさまでその夢はかなったんですけど、実際に13年間働いてみて痛感したのは、報道はとても大事なことなんですけど、それを受けて世の中が変わっていくかどうかは、番組を見たお一人お一人に懸かっている。自分たちがやっているのはきっかけでしかないんだなっていうことでした。
そんな折にロースクールができて、働きながら弁護士になれるというので興味を持ったんです。弁護士の仕事って、当事者と直接関わってその人を笑顔に変えていく仕事なので、現状に物足りなさを感じていた自分にはピッタリじゃないかなと思って、自然な流れでアナウンサーを辞めて弁護士になりました。あれからもうすぐ8年になります。

戸倉 実は、私も小学校の卒業文集に将来の夢を書いて、それを実現した後で別の道に進んでいるんですよ。

菊間 一緒なんですね(笑)。いまは建築のお仕事をなさっていると伺いましたけど。

戸倉 社会に出て最初になったのは看護師でした。子供の頃からの夢だった慶應病院のナースになって、小児科の病棟に入ったんですけど、病院の環境があまりにも殺風景でした。何とか子供たちを元気づけてあげたいと思って「落書きのできる廊下にしませんか?」「もっと植物を入れませんか?」って看護師長さんにいろいろ提案するんですけど「それは看護師の仕事ではありません」って相手にしてもらえない。だったら私が変えてやると思って建築の道を志すようになったんです。

いまは女性スタッフ8人と一緒に、そこで過ごす方々が元気になるような病院や高齢者施設、マンションを手掛けています。一昨年にはベトナムにも会社をつくって、現地の病院づくりにも取り組み始めたところです。
建築の仕事って普通は大学で学んでから始めるもので、私のように人を元気にしたいという発想から入る人は少ないと思うんです。随分遠回りをしましたけど、私にとってはそこが重要で、ナースの経験があったからいまがあると思っています。小学校の頃は、人を元気にできる人になりたくて包帯を巻く練習を一所懸命していましたけど、いまは環境で人を元気にしたい。ですからナースであろうが建築家であろうが、やっていることは一緒のような気がするんです。

弁護士

菊間千乃

きくま・ゆきの

東京都生まれ。平成7年早稲田大学法学部卒業。フジテレビ入社。入社4年目、番組の中継中に5階建てのビルから転落、腰椎圧迫骨折の重傷を負う。在職中に夜間ロースクールに通い司法試験の勉強を始め、19年フジテレビ退社。23年弁護士に。現在も仕事の傍ら、早稲田大学先端法学専攻知的財産LL.M.で勉強を続けている。著書に『私が弁護士になるまで』(文藝春秋)などがある。

自立した女性への憧れが出発点

菊間 戸倉さんがそもそも看護師に興味を持たれたきっかけは、何だったのですか。

戸倉 ナイチンゲールの本を読んで、その生き方に衝撃を受けたんです。彼女はイギリス貴族だったんですけど、クリミア戦争へ行って傷ついた兵士たちのために献身的に尽くし、当時は死ぬ場所だった病院を生きる場所に変えました。ただ、いま振り返ってみると、私があこがれを抱いたのは看護師というより、彼女の改革者としての強さ、自立した強さだったと思うんです。

菊間 自立した女性になりたいっていう思いは、私にもありました。いまのお話を伺っていて思ったのですが、たぶんナースも建築家もアナウンサーも弁護士も一緒。その時たまたま自分の琴線きんせんに触れた職業がそれであっただけで、もともとの出発点は、自立した女性になりたいっていう幼児期の憧れだったのではないかなと思います。
戸倉さんは何か思い当たることはありますか、そういう憧れを抱いたきっかけって。

戸倉 そうですね、私は福島県の田舎で育ったんですけど、隣町のカトリックの幼稚園にどうしても行きたくて、一人では危ないからついていくっていう親を「来ないで」って振り切って、一人でバス通いをしていたんです。

菊間 すごい(笑)。なぜそのカトリックの幼稚園に行きたかったんですか。

戸倉 向上心のようなものがあったのかなと思います。田舎に埋もれて遊んでいるよりは、もっと高みに触れてみたいというか。高校も親元から離れた女子校を選んで一人暮らしをしましたし、ナースになる時もやっぱり日本一の病院がいいと思って慶應病院を選んだんですけど、子供の頃から挑戦するのが好きでしたね。

菊間 私も同じようなところがありました。なぜかなって考えると、私の原点は、スポ根アニメではないかと。『アタック№1』みたいな。

戸倉 『アタック№1』は私も大好きでした(笑)。

菊間 昔はスポ根アニメって多かったですよね。そういうものに影響を受けて、運動会の時なんか数週間前から本番に向けて、毎日ダッシュ10本とか、ウサギ跳び何往復とか、自分で勝手につくったプログラムをこなしていたんです。そうするといい結果が出るから、また次も頑張ろうって(笑)。
そういうちょっとした成功体験の繰り返しでここまで来ているだけで、別に大それた計画があったわけではないんです。「きょうも一日とても楽しかった!」って思いながら寝て、「きょうは何があるんだろう!」ってワクワクしながら出掛けて行きたい。小さい頃から思ってきたのはただそれだけで、そのために努力してきただけなんです。

戸倉 私も一緒です。成功してやるぞみたいな思いはまったくなくて、自分が夢中になれる目標に向かって一つひとつやるべきことをやっていったら、今日に至ったというだけです。
建築家になろうと思ってナースを辞めた時も、何から始めたらいいか分からないので、まずインテリアコーディネーターの資格を取りました。そうしたら次は2級建築士、その次は1級建築士と、次に現れることを一つひとつやっていっただけで。それは決して辛いことでなくて、挑戦したらこんな自分になれるって想像して楽しみながらやってきました。

その一番の原動力になっていたのは、ナイチンゲールの「女性よ、自立しなさい」という言葉でした。若い時には自立ってどういうことなのかあまり分からなかったんですけど、自分で考えて自分で歩めることではないでしょうか。経済的なことだけじゃなくて、自分で考えた人生を進むことじゃないかと思っています。

ドムスデザイン社長

戸倉蓉子

とくら・ようこ

福島県生まれ。看護師として慶應義塾大学病院に勤務中、人間は環境で生き方が変わることを悟り建築家を志す。リフォーム会社を経て、平成3年プラニングファクトリー設立。イタリア留学後、11年ドムスデザインに社名変更。豊かなライフスタイルを実現する建物を追求する。28年ベトナムにドムスインターナショナル設立。著書に『いい家に抱かれなさい』(日経BPコンサルティング)などがある。