2019年3月号
特集
志ある者、事竟ことついに成る
  • 作家北 康利

禹門うもんを乗り越え
龍となれ

黒四ダムに命を懸けた太田垣士郎に学ぶもの

北アルプスの奥地、その巨大な雄姿で見る者を圧倒する黒四ダム。規模の大きさと建設の困難さゆえに、実現不可能とも言われたこの大事業に挑んだのが、関西電力初代社長の太田垣士郎である。彼はいかにして難局に次ぐ難局を乗り越え、電力供給による戦後復興の志を全うしたのか。この稀な人物から学ぶべきものについて、詳伝を手掛けた北 康利氏に伺った(写真:黒四ダム竣工式に日 ©関西電力提供)。

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いまの日本人に訴えたいこと

私たちのいまの生活は、電力なしには成り立たない。しかしながら、日々とどこおりなく供給される電力のありがたさを、どれほどの人が認識しているだろうか。ましてや、この不可欠な社会インフラを命懸けで築いた人物とその志にまで思いを馳せる人は稀であろう。

私がしばしば講演の機会をいただいてきた大阪の中央電気倶楽部くらぶには、関西の電気業界に貢献した企業家を顕彰けんしょうする壁画がある。大阪でんとう}電燈初代社長の土居{通夫みちおや松下電器産業(現・パナソニック)創業者の松下幸之助など錚々そうそうたる顔ぶれの中で、ひときわ私の関心を引き、評伝の執筆にまで至らしめたのが、太田垣士郎おおたがきしろうという人物であった。

太田垣士郎は、関西電力初代社長として実現困難と言われた黒四くろよんダム(関西電力黒部川第四発電所)を完成へ導き、戦後の復興に大きな功績を残した傑物けつぶつである。

私が評伝に取り上げるのは、その時の日本人に最も訴えたいことを代弁してくれる人物だ。太田垣士郎を意識し始めた頃の日本は、東日本大震災が人々の心に暗い影を落とす中、東京電力をはじめとする電力業界が強いバッシングにさらされていた。非常時の彼らの対応には確かに問題も少なからずあった。しかし冒頭にも記したように、批判する側に電力の重要性は十分認識されているだろうか。日々湯水のように電気を消費しながら、それを可能とする社会インフラへの感謝の念は失われていないだろうか。

エネルギー政策は国の存亡をも左右する。かつて日本が戦争へと突き進んだ要因も、突き詰めればエネルギーの供給を断たれたところにあった。

そして、戦後復興を果たそうとする日本のボトルネックになったのも電力であったのだ。現在、理髪店の多くが月曜日を定休日とするのは、かつて月曜日が停電日であった名残なごりである。戦後しばらくは月曜日に限らず、週に何日も停電に見舞われるのが常であったが、すべての産業の源となる電力が十分供給されなければ復興は成し得ない。

この窮状きゅうじょうを打開するために白羽の矢を立てられたのが、太田垣士郎であった。その双肩そうけんには、関西経済の命運が懸かっていたと言っても過言ではない。

彼が手掛けた黒四の建設は、現代のピラミッドとも呼ばれた難事業で、完成まで実に171人もの尊い命が失われている。これはまさに戦争と言っていいだろう。自分の命じた仕事で人が死んでいく。それはトップの寿命を着実に削り取る。体が大きく、性格も豪放磊落ごうほうらいらくで、一見頑丈がんじょうそうな印象を受ける太田垣ではあったが、後述する幼少期の事故により、実際は入退院を繰り返し、病室から指示を出すことも少なくなかった。彼はそうした病弱の身で、文字通り命を削りながらこの難事業に挑み、黒四竣工しゅんこうの9か月後、この世を去っていった。

私は大阪の人間でありながら、この偉大なる先人を知らなかった。そのことに大きな衝撃を受けるとともに、いまの日本に改めてその名を知らしめたいという願いを込めてその評伝に取り組んだのである。

作家

北 康利

きた・やすとし

昭和35年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。富士証券投資戦略部長、みずほ証券業務企画部長等を歴任。平成20年みずほ証券を退職し、本格的に作家活動に入る。『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社)で第14回山本七平賞受賞。著書は『日本を創った男たち』(致知出版社)など多数。近著に『胆斗の人 太田垣士郎』(文藝春秋)がある。