2020年3月号
特集
意志あるところ道はひらく
対談
  • (左)メキシコオリンピック男子マラソン銀メダリスト君原健二
  • (右)日本ライト級元チャンピオン坂本博之

逆境を受け入れて一流の道へ

メキシコ五輪銀メダリストの君原健二氏、元プロボクサーの坂本博之氏。ともに日本人に広く知られる一流スポーツ選手だが、栄冠を手にするまでには辛い幼少期に始まる様々な人生の山坂を超えていく歩みがあった。お二人に共通するのは逆境を受け入れて、自身の成長の糧にしてこられたことである。

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行動一つで夢は追いかけられる

君原 坂本さんとお会いするのは初めてですが、同じ福岡県人ということでとても親しみが湧きます。

坂本 僕もです。君原さんは北九州市、僕は田川市の出身ですから、すぐ近くですよね。郷土の大先輩と対談できるということで、きょうは楽しみにまいりました。
君原さんのご経歴を拝見しながら、78歳になるいまも市民ランナーとして、いろいろな大会で一回の棄権もなく完走を続けられていることに驚かされました。まさに現役ランナーでいらっしゃる。

君原 走り続けて64年になります。これまでに走った距離が18万キロ以上、地球4周半分なのですが、そうやって長年走り続けたことが評価されたのか、マラソンの普及、発展に貢献したとして昨年11月にランナーズ財団から第32回ランナーズ賞をいただきました。最近は1週間に3回ほど6キロのジョギングをする程度ですが、賞をいただいた以上、走れる限り走り続けなくてはいけないと思っているんです。
また、今年はオリンピックイヤーですけれども、ありがたいことに福島県の聖火ランナーに選んでいただきましてね。私の盟友・円谷幸吉つぶらやこうきちさんの出身地・福島県須賀川市すかがわしでは円谷さんを顕彰するメモリアルマラソンが毎年開催されていて、私も36回欠かさず参加してきました。聖火ランナーに選ばれたのもそういう縁があってのことですが、とても嬉しいですね。東京オリンピック・パラリンピックの成功と選手たちの健闘を祈念しながら、亡き円谷さんと共に聖火を運びたいと思っているところです。

坂本 半世紀を経て二度の東京オリンピックに関わられるのは、大変なことだと思います。
僕のほうは、ジムを経営する一方で、全国の児童養護施設を訪問して、ボクシングというスポーツを通して夢を持つこと、夢を追いかけることの大切さを伝えることに力を入れています。僕自身、福岡市にある和白青松園わじろせいしょうえんという児童養護施設で育った経験があるものですから、同じような境遇にある子供たちの力になれたらという思いで長年、この活動を続けているんです。

君原 九州のほうにもよくお見えになるんですか。

坂本 はい。君原さんがお住まいの北九州市には7つの児童養護施設がありますが、すべて訪問しています。子供たちに話をしたり、ボクシングを体験をしてもらったりして交流を深めているんです。
いま子供たちが児童養護施設に入る理由の6割が虐待です。虐待って嫌な言葉ですよね。僕も経験しているからよく分かります。小学生、中学生、高校生、施設にいる子の年齢は様々ですが、そういう子たちに僕は言います。「君たちのこれまでの人生の中で一番嬉しかったこと、一番悲しい出来事を頭の中に思い浮かべてごらん。そんないろいろな思いをこぶしに乗せて僕のミットめがけて思い切り打ってごらん」と。

君原 言葉ではなく体で思いを伝えるわけですね。

坂本 ハッピーなことを考えながら目いっぱいの笑顔で打ってくる子もいれば、眉間みけんにグッとシワを寄せながら怒りを込めて打ってくる子、悲しい表情で涙を薄ら浮かべながら打ってくる子もいます。そして、彼らは口々に「すっきりした。坂本ちゃん。今度はいつ来てくれるの」と言うんです。
すっきりするのは、自分の気持ちを僕に伝えることができるから、それを僕が受け止めたからです。そのことは子供たちの安心感につながるんです。
虐待を受けた子供たちはいじめや暴力におびえて心を閉ざしてしまっている。どうやって自分の夢を語れるのか、どうやったら自分の怒り、嬉しさを相手に伝えることができるのか。そのすべが分からない。そういう子の心を開かせるのは何よりも無償の愛です。
確かに自分を傷つけた大人がいたかもしれない。だけど傷ついた気持ちを受け止めてくれる大人もいる。僕は子供たちに安心感と夢を与えてあげたいんです。物がないからお金がないからといって夢を諦める必要はまったくない。行動一つで夢は追いかけられる、これは皆平等なんだよ、と。

メキシコオリンピック男子マラソン銀メダリスト

君原健二

きみはら・けんじ

昭和16年福岡県生まれ。東京、メキシコ、ミュンヘンと五輪3大会連続でマラソン競技に出場し、メキシコでは銀メダルを獲得。平成3年新日本製鐵退社後は九州女子短期大学教授などを歴任。競技者として35回、市民ランナーとしては39回、通算74回のフルマラソンをすべて完走。2020年3月には東京オリンピックの聖火ランナーとして福島を走る。

劣等生だった子供時代

君原 行動一つで夢は追いかけられるという坂本さんのお話、本当にその通りだと思いました。
私は小学生の時から勉強もスポーツもできない劣等生でした。夢や希望を持つことがない、気が弱く喧嘩けんかもできない子供だったんです。小学校の通知表をいまも大事にしていますが、5年生の通知表の先生のコメント欄には「温良ではあるが絶えずぼんやりとして真剣味がない。積極的に努力する気が少しもみられず、態度に明るさがない」と書かれています。

坂本 辛辣しんらつですね。

君原 しかし、そんな私にも欲はありました。人間は欲がないと成長、進歩はないと思いますが、私が当時持っていた欲は、勉強もスポーツもこのままではあまりにも恥ずかしいので、その恥ずかしさを少しでも小さくしたいというものでした。その小さな欲が小さな力となって少しずつ自分を高めてくれたように思います。
中学2年生の時、私はクラスメイトから駅伝部に入ることを勧められました。運動会で一等をとったことは一度もありません。走ることは得意ではないし、関心もなかったのですが、気の弱い私には断る勇気がなくて何の目標もないまま駅伝部に入部したんです。
自分でも驚いたのは、中学3年になった時、7番目の最後の選手として学校の代表に選ばれたことでした。変だな、おかしいなと違和感を感じながらも、これが固定観念を変える一つのきっかけだったように思います。

坂本 もともと秘めた才能をお持ちだったのかもしれませんね。

君原 それはどうでしょうか。マラソンにはハングリー精神が必要だと思いますが、私としては戦後間もない頃の食べる物も着る物もない幼少期の生活そのものが、我慢強さに繋がった気がしています。
中学時代は目標、夢を持っているわけではなく友達についていくのに必死でした。高校時代、教えを受ける環境に恵まれていたわけではありませんので先生の指示、指導はほとんどなく、練習は自分から取り組まなくてはいけません。そういう中で自主性も芽生えていきました。
そのうちに練習の効果が出たんでしょうね。高校時代にはインターハイに出場することができました。そのインターハイですけど、思いがけない人物が出場していたことを後で知りました。福島県の円谷幸吉さんです。円谷さんは5,000メートル走に出場して予選落ち、私は1,500メートル走で予選落ち。予選落ちしたこの二人の高校生が共に6後の東京オリンピックに日本マラソン代表選手として出場し、円谷さんは銅メダル、私は8位でした。高校のインターハイで予選落ちするような人間でも、オリンピックで活躍できることがあると、ぜひ申し上げておきたいですね。

日本ライト級元チャンピオン

坂本博之

さかもと・ひろゆき

昭和45年福岡県生まれ。児童養護施設で育ち20歳でプロデビュー。全日本新人王・日本ライト級チャンピオン、東洋太平洋ライト級チャンピオンを獲得。平成19年に現役を引退。現在は自身が会長を務めるSRSボクシングジムで後進の育成に務めるとともに、「こころの青空基金」を設立するなど養護施設の支援を続ける。