2025年1月号
特集
万事修養
インタビュー③
  • 落語立川流真打立川談慶

人生の師・立川談志が
教えてくれたこと

「天才」「鬼才」「異端児」……。落語の常識を覆す語り口で一世を風靡し、数々の異名を取った稀代の落語家・立川談志。談志の18番目の直弟子にして、数多の著作で師の教えを伝承する立川談慶氏に、過酷な修業時代を振り返っていただき、人生・仕事の支えにしてきた立川談志の教えについて伺った。

この記事は約12分でお読みいただけます

天才落語家の教えを受け継ぎ自らの手で栽培していく

──談慶さんは天才落語家・たてかわだんの直弟子として、師の教えの伝承に努めていらっしゃいますね。

2024年11月で談志の死から丸13年が経ちました。私も気づけば59歳になります。自分が立川流に入門した頃の談志は55歳でしたから、その年齢を超えてしまったんです。もちろん師匠とは比べられませんけど、果たして自分の位置はどのあたりにいるのか、これからどのような役回りでいこうか、模索している最中です。
改めて振り返ると、談志の下で修業生活を送るにつれ、私の可能性の扉は開かれていきました。直近4年で10数冊の本を出版できたのも、過酷な修業があったからに他なりません。ですから、師への感謝状という意味合いで本を書き続けてきました。また芸の面では、談志が落語のみならず浪曲にも幅を広げたように、来年(2025年)以降の披露を目指して取り組んでいます。

──師への恩返しとして、様々な挑戦を重ねられている。

やはり、根底にあるのは談志の系譜を辿たどりたいという思いですね。一方で、談志の二番煎じは誰も求めていません。自分が持つ財産を活かしながら、いかに師匠の芸を継いでいくか。心の中に抱くリトル談志に「師匠、これでいいですか」と常に問いかけ、自分なりのアレンジを心掛ける。うちの一門は皆同じだと思いますよ。

──落語立川流とは、どのような一門なのでしょうか。

400年の歴史を刻んできた落語は、ものの40数年前まで落語協会と落語芸術協会の2団体しかありませんでした。そんな中で1983年、談志は落語協会を脱退し、立川流を設立しました。立川流をひと言で表すなら、あらゆる外部情報をシャットアウトし、理想の落語を追求し続けるプライベートルームと言えるでしょう。
さかのぼれば1952年、柳家小さん師匠に弟子入りした談志は、旧態依然とした業界にへきえきしたのではないかと推察します。「俺と同じ価値観の弟子にはそんな思いはさせない」と、極めて高潔な理想を抱いたことは想像に難くありません。
実際、談志はそれまで花鳥風月をテーマにするのが一般的だった枕で時事問題を語るなど、常識をくつがえすスタイルを貫き、確立していきました。そんな革命児に課せられた最後のテーマが、自分の理想をすべて反映させた弟子を世に送り込むことだったんです。

──立川談志が自らの理想を追い求めて切り開いた一門であると。

立川流にはいわゆる伝統の寄席がありません。3、4年寄席で修業していれば、落語家らしい風情が身につくという教育システムがないのです。つまり、主体的に様々なエキスを吸収してやろうという覚悟がなければ、落語家として生きていけないわけです。
非常に厳しい半面、私のように本を書いてもいいし、志らく兄さんのようにコメンテーターをしてもいい。それぞれのやりたいことができるという大らかさがあります。談志が持つ要素を一人ひとりが受け継ぎ、自らの手で栽培していく。主体的に学び続けざるを得ないのが立川流なんですよね。

落語立川流真打

立川談慶

たてかわ・だんけい

昭和40年長野県生まれ。63年慶應義塾大学卒業後、ワコール入社。3年間のサラリーマン生活を経て、平成3年立川流Aコースに入門。「立川ワコール」を名乗る。12年二つ目に昇進を機に、立川談志による命名で「立川談慶」に改名。17年真打昇進。現在は落語のみならず、著作や講演活動を通して立川談志の教えを広く伝えている。著書に『落語を知ったら、悩みが消えた』(三笠書房)『武器としての落語:天才談志が教えてくれた人生の闘い方』(方丈社) など多数。