2017年1月号
特集
青雲の志
一人称
  • 現代文化會議代表佐藤松男

福田ふくだ恆存つねありに学ぶ
日本人の志

かつて保守論壇の象徴的人物だった福田恆存。その残した言葉は、いまもなお日本人の心に強く響くものがある。福田恆存がその評論活動をとおして伝えようとした思いはどのようなものだったのだろうか。学生時代から氏に親しく薫陶を受け、全集刊行などに関わってきた佐藤松男氏に語っていただいた。

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福田恆存に魅せられて

私が福田恆存先生の評論を読み始めたのは、大学に入ってからでした。人間心理に対する洞察に裏づけされた先生の文章に接し、「こんなにも面白い本があるのか」と思うほど、すっかり魅せられてしまったのです。

その頃(昭和42、3年)は、ベトナム戦争に対する反戦、反米運動の火が燃え広がり、左翼学生の立て看板が並んだ大学構内でシュプレヒコールが飛び交い、街頭ではヘルメット姿の学生たちが道路を占拠して、機動隊と衝突するといった、いまではとても信じられない光景が全国の至るところで展開されておりました。

福田先生は、当時既にマルキシズムや左傾化の時代風潮に反対する保守派を代表する論客として、一家をなしておられました。その当時私は、先生の著書を暗記するように読み、左翼学生の展示や集会、時に自治会室に直接乗り込んで行っては、論戦を挑んだものです。「全共闘で非ずば学生に非ず」と言われた大学紛争時には、先生の著書を武器に彼らと連日のように論争を繰り返していました。

先生との出会いは、大学紛争最中の昭和44年2月、全共闘に反対する私ども学生有志の会合に講演に来ていただいた時でした。

その日、先生は時事論から文学論まで幅広くお話しくださり、私どもの稚拙な質問にもユーモアを交え丁寧に答えてくださいました。痩身に三つ揃えのスーツをビシッと着こなし、休憩の際に銀製のシガレットケースから両切りのピースを取り出して、さりげなく口にされる。その姿が実にお洒落で格好よかったのをいまでもよく覚えています。

これは後年、先生のご依頼で全集刊行をお手伝いした時のことですが、「佐藤君、あなたと最初に会ったのは昭和44年2月か3月のどちらでしたか」と聞かれ、それに私がお答えすると、先生は全集の年譜に「昭和44年2月佐藤松男を知る。その依頼により時折講演を重ねて今日に至る」と書き添えてくださったのです。私にとっては生涯忘れることのできない出来事でした。

現代文化會議代表

佐藤松男

さとう・まつお

昭和22年東京都生まれ。学生時代に福田恆存氏に出会い、氏の命名による現代文化會議(前身 日本學生文化會議)を主宰。『福田恆存全集』の刊行に際して氏の依頼により年譜などの資料作成、収録作品の整理、配列を担当。著書に『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』(河出書房新社)などがある。