2017年2月号
特集
熱と誠
一人称
  • 風𡈽会長小山政彦

企業再生のプロが
教えるもの

船井総研で年間3億円を稼ぐナンバーワンコンサルタントとなり、同社の社長、会長として業績をV字回復させた小山政彦氏。現在は新たな会社を立ち上げ、夢に向かってなおも疾走を続けている。規格外の活躍を続ける小山氏を突き動かすものは何か。ご自身の足跡を交えてお話しいただいた。

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よい生き方をしてこそよい死を迎えられる

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

学生時代から折に触れ紐解いてきた『葉隠』冒頭の一節である。よい生き方をしなければ、よい死に方ができないというのが私の解釈である。

もともと無神論者の私は、魂の存在も輪廻転生も信じない。人間は死んだら焼かれて灰になって終わり。では、何のために生きているのか。

突き詰めていくと、人間は二度死ぬという考えに辿り着いた。一度目は肉体が滅びる時。そして二度目は、すべての人の間から自分の記憶が消え去る時である。その意味においては、織田信長は435年生き続けている。坂本龍馬は150年生き続けている。

せっかくこの世に命を授かったからには、人の記憶に残るような生き方をしたい。そんな思いに突き動かされ、私は今日まで走り続けてきた。

私の実家は、東京の下町で家具工場を営んでいた。最盛期には従業員を120人も抱えていたが、私が中学1年の時に倒産し、工場は人手に渡ってしまった。父はそこから再起を図り、新たに手掛けたディスカウントストアを10年で年商2億7,000万円まで伸ばし、近隣に名の知れた有名店に育て上げた。ところが昭和47年、11月26日の三の酉の日に火事で店を焼失、当時大学院に在籍していた私は、中退して立て直しのために家業に入ることになった。

私が最も力を入れたのはチラシだった。薄利多売の商売ゆえに、それまでほとんどチラシを打ったことはなかったが、これからはチラシで集客をする時代だと考えた。もちろん教えてくれる人などいなかったが、新聞の折り込みを見て独学で勉強するうち、チラシを見れば売り上げが読めるようになった。バーゲンの度にチラシを打ち、こちらの予想どおり5,000万円、1億円と売り上げるので、さしもの父も驚いていた。私が後に船井総研で提唱した販売方程式は、この時の蓄積がベースになっている。

学生時代に取得していた宝石鑑定士の資格も役立った。私が入るまでは貴金属の装飾品を少々扱う程度だったが、ビルのワンフロアを宝石売り場にしてフロア長を務め、ダイヤをはじめ様々な宝石類を扱った。これが売り上げの9.5%を占めるまでに成長し、店の立て直しに大きく寄与した。

私を突き動かしていたのは、冒頭に記した、名を残したいという思い。ディスカウント業界で名を残すなら、当時で年商2,000億円規模まで持っていかなければならないと考え、一日も休まず働いた。火事で焼けた会社の息子が2,000億円といっても、誰もまともに取り合わなかったが、私は本気だった。その甲斐あって店舗は2店に増え、年商は12年間で65億円まで拡大。私は3店目をつくってさらに業績を拡大しようと考えたが、職人上がりの父はこれ以上大きくしたくないと言った。

大学院時代にアルバイトをしていたIBMからは、アメリカに行かせるからうちに来ないかと誘われていた。それを断って家業に入ったからには、年商65億円で終わりたくはなかった。私は結局、父の店を離れることにした。

風𡈽会長

小山政彦

こやま・まさひこ

――昭和22年東京都生まれ。46年早稲田大学理工学部卒業後、同大学大学院に進学するも、火事に遭った家業立て直しのため中退。59年日本マーケティングセンター(現・船井総合研究所)入社。入社3年で売り上げ1億円、7年で3億円を稼ぐナンバーワンコンサルタントとして活躍。平成12年船井総合研究所社長に就任。22年会長。25年退任し、風𡈽会長に就任。著書に『船井流マーケティングの真髄』(ビジネス社)『9割の会社は人材育成で決まる!』(中経出版)などがある。