2018年2月号
特集
活機かっき応変おうへん
対談
  • ジャーナリスト櫻井よしこ
  • 京都大学名誉教授中西輝政

日本の活路をどう拓くか

一触即発の北朝鮮情勢や中国の海洋進出など、日本は過去にないほど重大な危機的局面を迎えている。混迷を極める国際情勢の中にあって、我が国はこの危機にどのように向き合い、厳しい現状を打開していったらよいのだろうか。ジャーナリストの櫻井よしこさん、京都大学名誉教授の中西輝政氏に今後の日本の活路について語り合っていただく。

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気概を失ってしまった日本人

櫻井 日本にとって、いまはまさに100年、200年に1回の大変化の時だと私は感じています。江戸末期にも幕府が機能しなくなって諸藩が台頭し、外国から黒船がくるという一大危機がありましたが、いまのほうがさらに大変だという強い危機感を抱いています。
幕末の日本には経済力はもちろん、長く戦争がなかったことで武力もありませんでした。情報は断片的なものしか入手できない。本来なら国が食いつぶされて不思議ではなかったはずですが、そうならなかったのは、先人たちに物を見る目があったからでしょう。
黒船から開国までの15年間に日本は不平等条約を結ばされたり、ロシアに島を奪い取られそうになったり多くの危機に直面しました。その中で先人たちは武力、経済力の必要性に目覚め、維新後は富国強兵策を打ち出す一方で、『五箇条の御誓文』によって国民の結束を呼び掛け激動の時代を乗り切っていったわけでしょう?

中西 おっしゃるとおりです。当時の日本の、危機感をバネにした自己変革は素晴らしいものでした。

櫻井 それから150年後、いまの日本が直面しているのは、戦後の庇護ひご国だったアメリカが内向きになり、片や中国は野望に満ち満ちた膨張主義の国になっているという抜き差しならぬ国際情勢です。
その狭間で我が国が生き延びるにはどうしたらいいかを考えた時、幕末と違って世界第3位の経済力はある、憲法で制限されているとはいえ軍事力もないことはない、情報もあるにはある。でも、確実に失ってしまったものがある。それは日本人としての気概であり、状況を直視して打つべき手を打つ現実感覚です。
悲しいことに「日本国を自分たちの手で守る」「北朝鮮有事の際、拉致被害者は自衛隊が救出する」のが当たり前だという感覚すらなくなってしまっているんですね。この精神的な体たらくは極めて危険だと思います。

中西 私も同じことを感じています。ただ、私の経験から言うと、いまから40年ほど前までの日本人にはまだそういう気概がありましたよ。私がまだ最初の海外留学に出る前でしたが、1960~70年代初め頃の日本では、中国が核兵器を持った以上、日本も持つべきだという議論や、日本が核拡散防止条約(NPT)を批准ひじゅんするのは中ソが核軍縮を進めてからにすべきだ、といった議論が活発に行われていました。
憲法改正議論もいまよりもずっと力強くて、こんなアメリカがつくった憲法は1日も早く日本人の手で全面的に改正すべきだという議論が戦前世代を中心に広く行われていました。もちろん、左翼・マスコミ方面では護憲論が強くありましたが。
そして、もっと重要なことは歴史認識がしっかりしていたことです。東京裁判は「勝者の裁き」であって、日本には日本の大義があったから、あんな裁判は無視しても構わないという、はっきりとした歴史観が当たり前のように語られていましたよ。だから、いまや日本は立派な経済大国になったのだから、次は本当の自立した国家になろう、という「世直しの感覚」がありました。ところが、6年ほど海外に行って帰ってくると、状況は大きく変わっていました。この間にやはり何か大切なものが失われていたんです。

櫻井 海外からいつお帰りになったのですか?

中西 行ったのが1973年でしたから、出たり入ったりしながら京大に戻ったのが79年です。

櫻井 というと、ちょうど大平内閣の頃ですね。

中西 だから私はその前の田中、三木、福田内閣の頃をよく知らないんです。ロッキード事件の時、ロンドンの街を歩いていると「あなたの国の総理が逮捕されたそうだよ」とイギリス人から聞かされて、慌てて新聞を買いに行ったくらいですから(笑)。
それはともかく、私がイギリスにいた間に、日本は経済大国になったのだから、さぞかしいま頃、経済だけではない本来の大国になろうとして気概にあふれているだろうと思っており、向こうではそのための核戦力やインテリジェンスなどについていろいろと研究していました。ところが、帰国すると日本は私の知っていた日本とはまるで別の国になっていました。例えば、「東京裁判は正しかった」というようなことを多くの学者が言い始めておりましてね。それまで、そんなことを言うのは『朝日新聞』や左翼の特定の人たちだけでしたから、これには驚きました。
そればかりか親米派、保守派と呼ばれる人までが「日本国憲法はもう我が国に定着しているんだ」「核兵器は持つべきではない」とこぞって口にするようになっていて、私は日本の学界という狭い世界の中で非常に息苦しい立場に追い込まれました。それで「これはとてもダメだ。もう日本から離れて、海外に居を移そう」と何度も真剣に考えた時期がありました。

ジャーナリスト

櫻井よしこ

さくらい・よしこ

ベトナム生まれ。ハワイ州立大学歴史学部卒業後、「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙東京支局勤務。日本テレビニュースキャスター等を経て、現在はフリージャーナリスト。平成19年「国家基本問題研究所」を設立し、理事長に就任。23年日本再生に向けた精力的な言論活動が評価され、第26回正論大賞受賞。24年インターネット配信の「言論テレビ」創設、若い世代への情報発信に取り組む。近著に『頼るな、備えよ―論戦2017』(ダイヤモンド社)など多数。

豊かさの中に潜んでいるリスク

櫻井 中国が核実験に成功したのは1964年の東京五輪の年で、70年の大阪万博の年にはミサイル実験をしています。この時から日本全土が射程圏内に入ってしまうわけですが、アジア初の祭典に日本国民が浮かれている一方、海の向こうではまったく別のことを国民が祝っていたわけですね。ただ、そういう中にあっても、現実を憂えていた政治リーダーは確かにいました。

中西 最近公になった資料を見ますと、この時日本政府はアメリカのライシャワー大使に「日本も核兵器を持つ」と通告していますし、1967年、訪米した佐藤栄作首相は、ジョンソン大統領に「中国が核兵器をつくったのだから、日本もつくる必要がある」と正式に伝えています。しかし、「どんなことがあっても日本に核は持たせない」と思っていたアメリカでは、大慌てに慌てたジョンソンが「日本は核保有を考える必要はない。我われが必ず守ってやるから」と言って、それまでは決して明言しなかったのに、急に核の傘を日米安保体制の中に位置づけるという話し合いに応じたんですね。その上で改めて「絶対に日本は核保有してはならない」と強く抑え込みました。
その迫力のすごさは、近年アメリカが再び日本を止めにかかったことで記憶に新しいところですが、
2006年に北朝鮮が初めて核実験をした時も同じでした。

櫻井 あの時は、政調会長だった中川昭一さんが核論議を口にして……。

中西 そうです。ブッシュ大統領(子)の命を受けたライス国務長官がすぐに日本に飛んできましたね。「日本はそんな議論はすべきではない」と、ものすごく強い調子で日本人と日本政府を牽制けんせいしました。しかし、もしあの時から議論を始めていたら、いま頃、北朝鮮の核ミサイルに一喜一憂することもなかった。日本は決定的に時間を空費してしまいました。
結局、この40年間、アメリカは、ある種の「安請け合い」を繰り返してきたわけですが、それで「アメリカにベッタリ頼っていればいいんだ」という日本国民の意識が固定してしまって、とうとうここまで追い詰められてしまいました。何で日本人はこんな状態にまでなってしまったのか。それは、いつぞや櫻井先生がおっしゃったことなんですよ。つまり、この40年を通じて日本人は「豊かさに負けた」わけです。豊かになるのはいいことのようにも思えますが、実は大きなリスクを背負っていることに気づかないまま、日本は物質面だけの豊かさを追い求めたから、遂にここまで来てしまったわけです。
いま思うとあの頃の気概ある日本人は一体どこに行ってしまったのか、何が日本人からこれほど自立への気概を失わせてしまったのか。この議論を突き詰めてゆくと、私はこの40年続いた非常に「危うい豊かさ」にその原因があるように思います。不用心に経済大国になってしまったことに、いま大きな跳ね返りがきていて、それが深刻なツケとして我われにのしかかっているわけです。

京都大学名誉教授

中西輝政

なかにし・てるまさ

昭和22年大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。英国ケンブリッジ大学歴史学部大学院修了。京都大学助手、三重大学助教授、米国スタンフォード大学客員研究員、静岡県立大学教授を経て、京都大学大学院教授。平成24年退官。専攻は国際政治学、国際関係史、文明史。著書に『国民の覚悟』『賢国への道』(ともに致知出版社)など。近著に『アメリカ帝国衰亡論序説』(幻冬舎)がある。