2023年11月号
特集
幸福の条件
インタビュー③
  • 阪神タイガースコミュニティアンバサダー岩田 稔

自分の中にある
インクを出し切る

歴史に名を残す野球選手は数多いが、不治の病を抱えてプロ入りし、現役の16年間を一球団に捧げ、観る者に勇気を与えた存在は他にいるだろうか。岩田稔投手は幾度となく偏見、怪我、黒星に泣かされながら、決して自らマウンドを降りることはなかった。多くの同病者に憧れられる氏の半生を通じ、自分自身の幸福を掴む鍵を探る。

この記事は約11分でお読みいただけます

言い出せなかった「引退」の2文字

——プロ野球界屈指の熱狂的なファンを持つ阪神タイガース〝不屈の左腕〟として、岩田さんは16年間、チームを離れずに投げ抜かれました。一昨年(2021年)の引退会見では何度も涙をぬぐわれていましたね。

あの時は、野球選手として心底やり切ったなという感慨と、入団会見で宣言した目標に近づけたかな、という反省の両方が渦巻いていました。序盤は冷静でいられたんですが、自分をずっと支えてくれた家族のことを話し始めた途端、走馬灯そうまとうのように16年間の記憶が浮かんで涙があふれてきて……。
その前の数年は正直、ほとんど結果を残せていなくて、引き際を探っていました。家族もそれを感じ取っていたでしょうけど、自分の口で引退を切り出すことがどうしてもできずにいたんです。

——何が頭を悩ませたのですか。

私は「1型」糖尿病の患者で、何度もひどい偏見に遭い、壁にぶち当たってきました。それで2005年、22歳の時の入団会見で後先考えず「1型糖尿病患者の希望の星になりたい」と宣言したんです。プロで投げる姿を見せ続ければ、同じ病気で苦しむ、将来を諦めている皆に「何だってできるよ」と証明できます。以来、投手としての勝敗と同じくらい、この言葉に負けないことを考えてプレーしてきました。だから成績を言い訳にマウンドを降りるわけにはいかず、引退という言葉はそれだけ重かったんですね。

阪神タイガースコミュニティアンバサダー

岩田 稔

いわた・みのる

昭和58年大阪府生まれ。大阪桐蔭高校2年次の平成12年、17歳で1型糖尿病を発症するも、関西大学を経て18年ドラフト希望枠で阪神タイガース入団。20年投手としてプロ初勝利、翌年第2回WBC日本代表に招集される。持病の啓発活動と共に16年間を同球団で投げ抜き、令和3年現役引退後、1型糖尿病啓発活動を行うためFamily Design Mを設立。近著に『消えそうで消えないペン』(ベースボール・マガジン社)がある。