2021年5月号
特集
命いっぱいに
生きる
  • 龍澤寺専門道場師家後藤榮山

名僧・山本玄峰の
生き方が教えるもの

静岡県三島市の龍澤寺にかつて山本玄峰という名僧がいた。若い頃から眼疾など様々な辛酸を嘗め、努力して禅の師家になった人物で、荒れ果てた同寺を再建した他、その教えは昭和天皇の「終戦の詔勅」にも影響を与えたとされる。96年の生涯を一行三昧に生きた山本玄峰の生き方を、その法統を嗣ぐ後藤榮山師に語っていただく(写真:玄峰老師が復興した現在の龍澤寺)。

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心の目を開けば見えないものはない

私が初めて山本玄峰げんぽう老師の謦咳けいがいに接したのは1955年4月、大学を出て静岡県三島市にある龍澤寺りゅうたくじ専門道場に入門した時でした。玄峰老師はその頃、よわい91。住職は既に中川宋淵そうえん老師に譲って閑栖かんせいされ、松老雲閑曠然自適(松老まつおい雲閑かにして曠然こうねんとして自適じてきす)の境涯で毎日を過ごしておられました。

直接、ご指導をお受けすることはなかったものの、平素は私たち新参の雲水うんすい(修行僧)にも優しく接してくださり、お顔を拝見したり、そばにいるだけで心がきよめられる春風のようなたたずまいでした。そういう温かい老師のお人柄を慕い、全国から多くの来訪者がありましたが、老師は禅の教義や難しい仏教哲学を口にされることはなく、共に茶を飲みながら「体の具合はどうですか」「商売はうまくいっていますか」と常に相手をおもんばかり、ねぎらっておられました。

「わしの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんも来れば乞食も来る、大臣も来れば共産党までやって来る。みな同じ乗り合い舟のお客様じゃ」

これが老師の口癖であり、そのお姿はまるで人を利することを楽しまれているようにも見えました。

これから申し上げることは、最晩年に接してきた私の見た玄峰老師のお姿です。「いや、私はそんなことは知らぬ」とあの世でおしかりをいただくことがあるかもしれませんが、ひと言そのことをお断りした上で、老師の人生や人物像についてお話を進めたいと思います。

玄峰老師は江戸末期、和歌山県東牟婁郡四村ひがしむろぐんよむら(現在の田辺市本宮町)でお生まれになります。芳野屋という旅館の玄関先にこもにくるまれて捨てられていた赤ん坊を岡本という夫妻が養子として迎え、岡本芳吉よしきちと名づけます。おそらくいろいろな家庭の事情があったのでしょうが、いまとなってはこの辺りのことは定かではありません。左党さとうの老師に言わせれば、捨てられたこの赤ん坊は日本酒を吹きかけられて息を吹き返したとかで、「わしはその頃から酒に縁があるんじゃ」とよく笑っていらっしゃいました。

紀州はひのきの本場であり、芳吉青年は木樵きこりや紀ノ川のいかだ流し、足尾銅山の工夫くふうなど様々な肉体労働に従事されますが、19歳の時に眼疾がんしつを患い、京都の病院で「このままだと失明してしまう」と宣告を受けるに至ります。推測ですが、足尾銅山で働いておられた時、汚水が目に入ったためではないかとも思われます。

希望を失った芳吉青年は日本中を放浪。ある人から「四国八十八か所霊場巡りを満願すれば、眼疾は治癒ちゆされるかもしれない」と聞き、経済的に恵まれないこともあって、裸足による巡礼の旅にスタートされるのです。しかも、この旅は7回に及びます。

「寒い時は道が凍っていても歩けば全身が温まる。しかし、真夏に石畳の上を歩くのは言葉にならないほどの苦しさであった」と老師は述懐じゅっかいしておられました。バスも車も電車もない130年以上前のこと、眼疾を患いながら裸足で旅を続ける苦しみ、痛みは体験した人でないと分からないでしょう。そして7回目の巡礼の時、高知県にある三十三番札所・雪蹊寺せっけいじで行き倒れになられるのです。

行き倒れになった芳吉青年を助けたのは雪蹊寺住職の山本太玄たいげん和尚でした。一年ほど寺男として働いた後、26歳の時に太玄和尚のもとで出家されますが、この時の芳吉青年と太玄和尚との印象的なやりとりがあります。

「私はお坊さんになれるのでしょうか」と聞く芳吉青年に、和尚は「おまえは、そうなる人間であろう」と答えます。「しかし、私はご覧の通り盲目同然。字も分からず、お経も読めない。こんな人間でも本当にお坊さんになれるのですか」と食い下がると、和尚は次のような答えを返しました。

「普通の坊さんならなれないが、覚悟次第で本物の坊さんになれる。人の目なんてふすま一枚、裏は見ることができない。しかし、心の目を開けば、見えないものはない」

師の言葉に感銘を受けた玄峰老師は、出家を決意して仏道の修行の一歩を始められました。玄峰老師の法統をいだ弟子の中川宋淵老師は、そんな玄峰老師を次のように詠われました。

 熊野の奥に
 い出でて
 筏流しや
 木の根掘り
 めしいとなりしが
 えにしにて
 まことの目明きと
 なりにけり

龍澤寺専門道場師家

後藤榮山

ごとう・えいざん

昭和5年東京生まれ。20年禅寺にて出家。30年早稲田大学第二文学部哲学科卒業後、龍澤寺専門道場に入門。中川宋淵老師、鈴木宗忠老師に就いて参禅。海禅寺住職などを経て平成20年龍澤寺住職となる。フランスなど海外でも禅の普及に努める他、海禅寺徹心会、東京大学陵禅会で禅指導を続ける。