渡邉氏は大正8年、福岡県久留米市にお生まれになりました。幼少期は厳父より「武士の子」として躾けられ、青少年期を通して様々な聖賢の書に親しむ中で士道に生きる志を確立されました。
戦後は新樹会の前身で、後に青年海外協力隊の母体ともなる日本健青会を結成。シベリア抑留者の引き揚げ支援や戦死者の慰霊、不当な裁判にかけられた戦犯者の減刑などに奔走されました。
特に活動を通して安岡先生に出会い、師事されるようになったことは渡邉氏にとって大きな転機でした。安岡先生に教えられた「靖献(自ら靖んじ自ら献ずる)」「一燈照隅、万燈照国」、さらに先生が手を入れられた「終戦の詔勅」の「万世のために泰平を開く」という言葉は、その後の氏の人生を支える指針になったといいます。
昭和26年からは参議院議員秘書、国務大臣行政管理庁長官秘書官、福島県知事政務秘書を歴任。63年の退任後、平成2年に結成した福島新樹会の代表幹事を25年間にわたって務められ、古典の勉強会などを通した人づくりに尽力されました。
その生涯は氏が好まれた靖献という言葉そのものの如く、自己修養と人づくりの志に貫かれたものでした。
渡邉氏と『致知』との出会いは平成8年に遡ります。以来、安岡先生や西郷南洲、佐藤一斎をはじめとする先知先賢の教えをテーマとした特集に10回以上ご登場いただいた他、『言志四録一日一言』『「西郷南洲手抄言志録」を読む』などの書籍を手掛けていただき、弊社主催セミナーでのご講義も賜りました。
渡邉氏は、木刀の素振りを日課とされ、背筋をピンと伸ばして歩かれる紳士然とした長身のお姿は最晩年まで健在でした。一方、講義や取材に当たっては毎回入念に準備をされ、穏やかな口調で先人の教えを一つひとつ丁寧に紐解かれるお姿もまた、弛むことのない平素の鍛錬を物語るものでした。
ここ数年、外出されることは少なくなったものの、4世代の賑やかな日々の中で読書による自己修養を続け、病床に伏すこともなく眠るような最期を迎えられたといいます。
数年前「渡邉先生の生き方は素晴らしいですね」と申し上げたところ、「『致知』の活躍こそ素晴らしいじゃないですか」と弊誌を高く評価してくださったことも忘れ難い思い出です。実際、最晩年まで赤線を引きながら熱心にお読みになっていたと聞いています。
渡邉氏よりいただいた数々のご恩に感謝申し上げつつ、心よりの哀悼の意を表します。
川辺氏は昭和13年大阪府生まれ。3歳の時に患った小児麻痺により、左足が不自由になるという不幸に見舞われます。さらに父親の不義、貧困、虐待と、幼少期は逆境の連続でしたが、そこから見事に立ち上がり、靴の小売業で独立。その後50歳で飲食業へ進出すると、ホルモン焼きの「情熱ホルモン」をはじめとする様々な業態の店を積極的に展開し、全国200店舗、3,000人の従業員を抱える一大飲食店グループを築き上げました。まさに立志伝中の人でした。
川辺氏と『致知』の縁は、平成元年のインタビューにご登場いただいことに始まります。以来、弊誌の理念に深く共感され、同年地元でなにわ木鶏クラブを設立。30年にわたり代表を務め、多くの会員が活発に読後感を語り合う有力クラブへと導かれました。
川辺氏の波瀾万丈の人生は、弊社刊行の著書『清、負けたらあかん』で赤裸々に綴られ、大きな反響を呼びました。同書の中でもとりわけ印象的なのが、どん底にあった川辺氏に強烈な負けじ魂を刻みつけた幼少期の体験でした。
靴の修理を生業とし、各地へ赴くことの多かった父から足手まといになると言われ、親戚に預けられて育った川辺氏。しかし小学3年生の時、酷い虐待に遭い母に連れ戻された時には、自宅に父の姿はありませんでした。病で寝込んだ母から、父の所から米をもらってくるよう頼まれ、胸を弾ませて訪ねた父のもとには知らない女性がおり、「おまえのような者は知らん」と追い返されてしまいました。
その時の悲しさ、悔しさ、そして病弱な母を自分の手で楽にしてあげたいという思いが、
「清、負けたらあかん」
という一念となって氏を突き動かしたのです。
しかし、中学を卒業して靴職人のもとへ奉公したものの、結核を患い実家へ戻されてしまいました。深い絶望感に苛まれた川辺氏は、機関車に身を投げ自殺を図るも失敗。自分の身代わりにポケットから転がり出た5円玉が、機関車に潰され平たくなっているのを見て、
「俺は5円玉や。5円玉の輝きを見せてやる」
と奮起し、病を克服して成功への道を突き進んでいったのでした。
川辺氏は後年、母からの諭しによって父に対して長年抱いていたわだかまりを解き、自分が今日あるのは両親のおかげと、心の底からの感謝を表明していました。
逆境を糧に目覚ましい人間的成長を果たし、限りない情熱を持って運命を切り開いていったのが川辺清氏の人生でした。
生前のご功績を偲び、ここに謹んで哀悼の意を表します。